シェイクスピアの戯曲には、『ハムレット』の「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」をはじめとする数々の名言が登場します。「この世は舞台、人はみな役者」も、シェイクスピアが生み出した名言の1つ。今回は、現代人にも刺さるこのフレーズの意味、そして登場作品についてご紹介します。

世界劇場の思想に基づいた名セリフ

「この世は舞台、人はみな役者」は、シェイクスピアの戯曲『お気に召すまま』に登場するセリフです。

シェイクスピアといえば、世界演劇史に名を残すイギリスの偉大な劇作家。世の中を1つの舞台、そしてその中で生きる人々を役者に例えたこのセリフは、芝居作りを生業としたシェイクスピアらしいストレートな比喩がわかりやすくて心に残ります。

人生という舞台でどのような脚本を描き、自身をどう演出してどんな役を演じるのか。人生の捉え方や、組織の中での自分がどうあるべきかを考えさせられる名言です。

仕事で大役を果たす人への励ましや、独り舞台で頑張りすぎてしまう人へのアドバイスなどにも引用できますね。

シェイクスピアが活躍した16世紀末から17世紀にかけてのイギリスは、演劇が盛んなエリザベス朝の時代でした。当時は劇場を世界の縮図とする「世界劇場(Theatrum mundi)」という概念があり、「この世は舞台、人はみな役者」は、世界劇場のメタファーであるとも捉えられます。

喜劇『お気に召すまま』とはどんな作品?

1955年頃に書かれた『お気に召すまま』は、シェイクスピア喜劇の中で最も幸福な物語と言われています。

舞台は、美しく神秘的なアーデンの森。

ここでは兄のフレデリックに公爵の座を奪われた前公爵が、廷臣たちと共にのどかな暮らしを楽しんでいました。

そこへ、フレデリックに命を狙われたオーランドと忠臣のアダムが森へ避難してきます。

彼らとは別に、フレデリックに追放された前公爵の娘ロザリンドと、彼女を慕うフレデリックの娘シーリアもやって来ました。ロザリンドは男装してギャニミード、シーリアは妹のエイリイーナと名乗り、兄妹として森で暮らすようになります。

ロザリンドとオーランドは宮廷で出会ったことがあり、その時から惹かれ合っていました。偶然、森で再会する2人。しかしロザリンドが男装しているため、オーランドは相手が意中の女性だと気づかずに恋の悩みを打ち明けます。

オーランドに自分をロザリンドだと思って告白の練習をしてはどうかと、ゲームを提案するギャニミード。彼がロザリンド本人であることを知らないまま、オーランドはゲームに興じます。

恋の駆け引きがあったり、オーランドが自分を迫害していた兄オリヴァーと和解したり、ドタバタな展開の末にロザリンドは正体を明かしてオーランドと結ばれます。そしてオリヴァーとシーリア、森で出会った羊飼いたちにもそれぞれ恋が芽生え、3組のカップルが成立して大団円の幕切れとなるのです。

セリフの語り手は、皮肉屋の脇役ジェイクイズ

名セリフ「この世は舞台、人はみな役者」を劇中で語ったのは、どの登場人物なのか。それは出番の多いロザリンドでもオーランドでもなく、前公爵の従者である脇役のジェイクイズです。

アーデンの森が持つ魔力のせいなのか、多くの登場人物には恋や改悛といった大きな変化が訪れます。

ところが皮肉屋で周りの環境に惑わされないジェイクイズは、森の魔力に翻弄される人々を冷静に見て批判しているのです。

第2幕7場。森へ逃げてきたオーランドは飢えたアダムのために前公爵を襲って食料を奪おうとしますが、前公爵は2人を温かく迎え、オーランドは自身の行いを反省します。前公爵の「不幸なのは我々だけではない」という呟きを受けて、ジェイクイズは例の名セリフを語るのです。

彼のセリフには続きがあり、人々は登場と退場を繰り返して様々な役を演じ、それは7場に分かれる舞台だと言います。その7場は、乳母に抱かれた赤ん坊、泣き虫の小学生、涙ながらに詩を作る恋人、喧嘩っ早い軍人、太鼓腹の裁判官、やせ衰えた老人、そしてまた赤ん坊。

人生を醒めた目で見ているジェイクイズのこのセリフは、恋に忙しい若者たちや田園生活を謳歌する前公爵では思いつかなかったことでしょう。

さきこ

劇団四季のミュージカル『ゴースト&レディ』でも、芝居好きのゴースト・グレイが「この世は舞台、人はみな役者だ!」とジェイクイズのセリフを引用しています。 時に前向きな気持ちに、時に心を落ち着かせてくれるこの名言は、舞台が好きな方なら特に親しみを感じるのではないでしょうか?