戦後80年と日本の演劇について考える記事の【後編】は、早稲田大学演劇博物館の企画展「演劇は戦争体験を語り得るのか―戦後80年の日本の演劇から―」(8月3日まで開催中)のリポートをお送りします。
若手研究者たちが従来の戦争劇の枠にとらわれず、膨大な舞台芸術アーカイブから戦争に関する表現を含む作品を選び出し、世代によって異なる戦争へのまなざしや、「原爆」や「沖縄戦」などのテーマ別に幅広く紹介。公演ポスターや戯曲原稿、舞台美術模型、公演映像など約100点の資料が展示されています。
中心となって企画した同博物館助手の近藤つぐみさんは、戦争と地続きの米軍基地問題が今なお影を落とす「沖縄もの」に特に引き寄せられたといい、「演劇を通して過去の戦争を思い返し、現在の戦争と向き合うきっかけのひとつになれば」と話しています。
心に刺さる名作戯曲の言葉、言葉、言葉

唐十郎『少女仮面』出典:『唐十郎全作品集 第2巻 戯曲Ⅱ』冬樹社、1979年
「戦争が終いだと分っていて、どうしておれたちに工程やらせるんだ!」(宮本研〈1926~88年〉、『反応工程』 『宮本研戯曲集 第1巻』白水社、1989年)。
展示室に入ると、目に飛び込んできたのは、仮設の壁に並ぶ言葉、言葉、言葉…。劇作家ら24人が書いた戯曲41作品の印象的なせりふが大きく印字されており、圧倒的なパワーを感じました。
「作品の内容を知らなくても、劇作家が戦争について語るときにあふれ出てくる言葉をまず感じてほしいと思って、展示空間デザインの方と相談を重ね、この展示方法に決めました」と近藤さん。
企画展の準備では、近藤さんをはじめ1990年代生まれの若手研究者が中心となって、演劇博物館が運営する日本の舞台公演映像の情報検索サイト「Japan Digital Theatre Archives(JDTA)」などで戦争に関する表現を含む戯曲約350作品をリストアップ。あえてジャンルや系譜を決めずに検索して、以前なら「戦争劇」とされなかった作品も集めました。プロローグから第5章まで、6つの章を駆け足でたどっていきましょう。
「プロローグ 戦争と演劇の関わり」では、日清戦争の戦地を取材した『川上音二郎戦地見聞日記』の錦絵を手始めに、太平洋戦争以前の戦争において、軍国美談などを芝居に仕立てた作品が、国威発揚に貢献した歴史をひもときます。
冒頭でご紹介した、戯曲のせりふの壁が登場するのは、「第1章「当事者世代」の戦争演劇」から。戦時下の演劇人の多くは、1941年に結成された国家主導の演劇団体「日本移動演劇連盟」の下での活動を余儀なくされ、中には戦意高揚の作品づくりに取り組んだ者もいました。こうした戦時中の演劇と戦争の関わり方から脱却しようとする姿勢や、劇作家によっては過去への深い自己反省が、当事者世代の戦争劇には色濃く反映されています。
その代表格が、三好十郎さん〈1902~58年〉。戦後直後に書かれた作品には、徴兵を拒否した男が戦中は家族ともども批判に遭ったものの、戦後は一転して賞賛される『その人知らず』(1948年初演)、防空壕だった洞穴に閉じ込められた3人の生と死のせめぎ合いを描いた『胎内』(1949年発表)などの関連資料が展示されています。「生涯をかけて戦争という事象について考え続けた劇作家だと思います」と近藤さんは語っています。
「第2章 原爆の表象、あるいは表象不可能性」では、原爆をテーマに構成されています。1950年代から盛んに制作されるようになり、野田秀樹さん〈1955~〉の『パンドラの鐘』(1999年初演)など、近作でも題材に多く取り上げられています。田中千禾夫(ちかお)さん〈1905~95年〉の『マリアの首―幻に長崎を想う曲―』(1959年初演)や井上ひさしさん〈1934~2010年〉の『父と暮せば』(1994年初演)など、今でも再演される機会が多い名作ぞろいです。
その中でも、近藤さんが重要な作品の1つに挙げるのが、別役実さん〈1937~2020年〉の初期の代表作『象』。原爆で負った背中のケロイドを街頭で見せ、かつてのように拍手喝采を浴びたいと願う「病人」と、静かに最期を迎えたいと思う「男」という対照的な2人が登場します。被爆を巡るさまざまな人間模様を描き出したこの名作は1962年、鈴木忠志さん〈1939~〉演出で初演され、当時の演劇界に衝撃を与えました。会場には、貴重な初演の公演ポスターも出展されています。
別役さんや鈴木さんと同世代で、終戦時に子供だった「焼け跡世代」(1935~46年生まれ)の多くは、1960年代のアングラ演劇の旗手となりました。彼らの作品は、戦争を正面から描くのではなく、テーマや設定の中に戦争の痕跡を潜ませている傾向が見られると、近藤さんは指摘します。「第3章」のタイトルが「「焼け跡世代」の演劇人と戦争の影」となっているのも、こうした思いからだそうです。
その一例で紹介されているのが、唐十郎さん〈1940~2024年〉の『少女仮面』(1969年初演)で、地下の喫茶室に何度も水道水を飲みに来る男のせりふ。筆者が観劇した時、「焼け跡」という言葉を深く意識しなかったのですが、改めて文字で見てみると重く響きました。
「焼け跡さ、焼け跡とあのギラつくお天道さまのせいなんだ。俺は不思議なんだよ、水道のありがたさを、二十四年経つと、皆、忘れちまうのが、俺は信じられないよ。」(唐十郎『少女仮面』 『唐十郎全作品集 第2巻 戯曲Ⅱ』 冬樹社、1979年)
さらに2000年代以降になると、史実を丹念に調べた作品が注目を集めるようになります。「第4章 さまざまな視点から見た戦争」では、旧日本軍の細菌戦部隊「731部隊」や、太平洋戦争の激戦地・サイパン、大日本帝国による朝鮮統治などをモチーフにした戯曲が取り上げられています。その担い手の1人がこの記事の【前編】で登場した劇団チョコレートケーキの劇作家・古川健さん〈1978年~〉です。
「戦争における加害者側としての日本の側面を描いた作品にももっと焦点を当てたいと思いましたが、原爆や沖縄戦を取り上げた作品と比べるとどうしても数が少ない中、古川さんの取り組みは重要だと感じました」と近藤さんは振り返ります。
演劇ならではの手法で「沖縄戦」と「今」を接続
企画展の最後を飾るのは、「第5章 沖縄と終わらない戦争」。今の米軍基地問題につながる戦争のテーマとして、「沖縄もの」に最も関心を寄せたという近藤さん。劇中でさらに別の劇が展開する演劇の「入れ子構造」を使って、「今」⇔「戦時中」の時間軸を往還させることが、戦争を語るうえで有効な手段になるのではないか、と沖縄戦を描いた戯曲を分析していて気づいたそうです。
沖縄戦を題材にした演劇作品は、戦後間もないころから製作されてきました。『放浪記』で知られる劇作家・菊田一夫さん〈1908~73年〉が宝塚歌劇団に書き下ろした『ひめゆりの塔』(1953年初演)は、「ショー的要素も盛り込みながら、心をえぐる強烈なせりふが出てきます」と近藤さん。「当事者世代」の1人として戦意高揚のために協力した反省が込められているのでしょう。
しかし、沖縄が米軍占領統治下にあった時代、沖縄戦を描いた作品は下火でした。「金字塔」とされる作品の登場は、1972年の沖縄本土復帰以降につくられた知念正真(せいしん)さん〈1941~2013年〉の『人類館』(1976年初演)を待たなければいけませんでした。
この作品は、1903年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」で、日本政府が沖縄や台湾や朝鮮などの人びとを見世物のように「展示」し、国内外から激しい非難を招いた「人類館事件」をモチーフにしています。同じ人物を登場させたまま異なる時代を交叉させる、演劇ならではの手法を駆使して、沖縄戦や米軍基地、ベトナム戦争、本土復帰運動までを照射しました。
沖縄の複雑な歴史と矛盾に満ちた現実を描くためには、複数の時代を重ね合わせて見せるような工夫を必要とするのでしょうか。近藤さんは、この『人類館』の手法が、「「沖縄もの」演劇のひとつの方向性を決定づけたのだろうか」と、企画展の図録『演劇は戦争体験を語り得るのか:戦後80年の日本の演劇から』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館監修、早稲田大学出版部 2025年)で書いています。

米軍普天間飛行場の移設問題で揺れた2010年代以降、類似した構造を持つ「沖縄もの」が続々と制作されます。衝撃作となったのは、マームとジプシーの藤田貴大さん〈1985年~〉が、人気漫画家・今日マチ子さんの同名漫画を基に書いた『cocoon』で、2013年に初演されました。沖縄戦で負傷兵の看護に動員された少女たちの視線を通じて、友情や恋にざわめく青春の輝きと、暗いガマ(自然洞窟)の野戦病院での苛酷な体験を対比的に描いています。
「冒頭、現在を生きる少女が、夢の中で走っていたような気がすると言って、フラッシュバックのように戦時中の場面へと切り替わる。現在と過去をつなげる構造がとても巧みだったと思います。少女サン役の青柳いづみさんの演技もすさまじかったです」と近藤さんは振り返ります。走る、歩く少女たちの身体表現、同じせりふを繰り返すリフレイン。新たな表現を提示した『cocoon』は大きな評判を呼びました。2015、22年と再演を重ねるたびに、沖縄戦を今と接続させ、戦争を自分ごととして描く藤田さんの姿勢はより鮮明となり、22年版では、客席に直接、呼び掛ける次のせりふが、リライトされました。
「現在(いま)は、過去から見た未来。あのころ、だれがこんな未来、想像しただろう」(藤田貴大『cocoon』 マームとジプシー、2024年)
最近では、沖縄ゆかりの劇作家による沖縄発の作品が、国内各地で上演され、注目を集めています。沖縄の劇団「劇艶おとな団」の安和学治(あわ・がくじ)さんと国吉誠一郎さんが共作した『9人の迷える沖縄人(うちなーんちゅ)~after’72~』(2015年初演、当山彰一さん演出)にも、過去と現在をつなぐ入れ子構造が用いられています。
1972年の目前に迫った沖縄本土復帰をめぐる討論会が劇中劇で、その討論会を演じる現在との二重構造で、「1972年」と「現在」を行き来しながら展開していきます。登場人物は、討論会に集められた有識者や主婦、本土からの沖縄移住者、戦争を体験した高齢女性、若者などの「9人の迷える沖縄人」。彼らを演じる俳優たちは沖縄出身者たち。討論会で演じるパネリストとしての意見と、休憩中に俳優自身が語る意見は次第に溶け合い、虚と実の境界があいまいになっていく中で、沖縄で暮らす人々の複雑な心情を浮き彫りにしていきます。
沖縄本土復帰50年を迎えた2022年には、当時33歳の劇作家・兼島拓也さん〈1989年~〉が、沖縄で生まれ、暮らす若者としてのリアリティーを込めた『ライカムで待っとく』が初演されました。
「内地から、沖縄は見えないでしょ?/そんなこと……/ここは、沖縄は、日本のバックヤードだからね。/どういう意味?/バックヤードで起きたことは、表からは見えない」(兼島拓也 『ライカムで待っとく』 『悲劇喜劇』2023年1月号、早川書房 /は筆者)
「沖縄は、日本のバックヤード」。国土の0.6%しかないのに、在日米軍専用施設の70%が集中する沖縄は、重すぎる米軍基地負担を強いられてきました。本土復帰から半世紀を経ても変わらない沖縄と日本の関係性を突いたくこのせりふは、大きな反響を呼びました。
米占領下の沖縄・普天間で実際に起きた1964年の米兵殺傷事件を取材する本土出身の雑誌記者が主人公。沖縄で調査を進めるうちに、犯人とされた沖縄青年4人のうちの1人が、自分の妻の祖父だったことを知ります。既に亡くなっていたその祖父が霊媒師によって呼び出されたことから、雑誌記者は事件が起きた1964年の世界へと引きずり込まれていきます。ここでも過去と現在の二重構造の中で、沖縄戦や米占領下での差別、辺野古埋め立て問題、米兵による女性暴行事件など、沖縄の現実が描かれていきます。
日本の本土が平和であるために、沖縄を犠牲にして紡がれる「物語」。劇中のこの言葉に兼島さんとほぼ同世代の近藤さんは、衝撃を受けたといいます。「沖縄のことを物語に仕立てる行為には、何かを取捨選択しているという責任が伴う。そのメタファーだと感じました。兼島さんが込めた自省のような思いは、今回の戦争展を企画しているとき、『私が戦争について語っていいのだろうか』という戸惑いの気持ちがあったので、とても共感しました」と明かしてくれました。それは同時に、戦後80年を経た今、戦争を振り返る難しさ、それでも語り続ける大切さにつながるとも。

最後に、企画展のタイトル「演劇は戦争体験を語り得るのか」という問い掛けに、近藤さんならどう答えるのか聞いてみました。「『戦争体験を語り得るのか』ということを、これからも考え続け、語り続けていきたいと思っています」
早稲田大学演劇博物館の企画展「演劇は戦争体験を語り得るのか―戦後80年の日本の演劇から―」の詳細は公式HPをご確認ください。

過去の出来事であっても、舞台上で語られるときは現在形。そこに演劇というメディアの可能性を見いだしたいと思います