シェイクスピアが活躍した約400年前のロンドン演劇界は、市民に観劇文化が根付いた時代とされ、演劇史では「エリザベス朝演劇」としてその興隆が語られます。それまで貴族邸を巡業していた劇団が市中の劇場で公演を打つようになり、芝居が多様な階級に親しまれた時代です。それまで市民が親しんだ娯楽と言えば、熊いじめや曲芸といった血生臭い見せ物。そんな彼らが芝居を観に劇場へ足を運ぶに至った背景を紐解きます。

01 芝居のための空間「劇場」の誕生

大貴族お抱えの劇団による上流階級向けの巡業では、邸宅の広間に即席の舞台を設置して上演していたため、いわゆる劇場も無く、庶民が芝居に触れる機会などありませんでした。

変化のはじまりは1576年、ロンドン最初の劇場、シアター座の建立です。庶民のための立ち見エリアと貴族のための観覧席が設けられ、上流文化だった劇団の公演が庶民にも手の届く娯楽として市民に開放されました。

ピューリタン革命で劇場が閉鎖されるまでの約60年間、ロンドン市内外には延べ16もの劇場が建設され、中には3000人規模の大劇場もあったそう。これは、演劇史上類を見ない速さでの劇場開発であり、他のどの時代、地域と比べても圧倒的に演劇文化が普及したことを裏付けています。

ちなみに、シアター座を解体し、その木材を再利用して建てられたのが、かの有名なグローブ座。シェイクスピアが俳優兼劇作家として所属した宮内大臣一座の劇場として、多くのシェイクスピア戯曲を上演しました。当時の設計図やスケッチは現存しませんが、ロンドンに再現された現代のグローブ座同様、四角い張り出し舞台を立ち見用の土間が囲う、半屋外の円形劇場だったと言われています。

02 教養への憧れを強めた市民たち

芝居が大衆文化として興隆した時期と重なるようにして、市民の識字率が飛躍的に向上したことが分かっています。子供たちが通った文法学校の教科書が初めて出版されたのは、シアター座完成より前の1570年のこと。その後1590年頃には読み書き訓練用の出版物需要が一気に高まり、ロンドン地域の識字率は1590年には60パーセント、1600年には80パーセントにまで向上しました。

市民の識字率向上は、言葉で楽しむ芝居への知的好奇心と相乗関係にあったと言えるでしょう。まだまだ本が高価だった時代において、演劇は言葉で人々のイマジネーションを掻き立てる、数少ないエンターテインメントのひとつ。私たちが小説や映画を享受するように、人々は芝居で言葉遊びを謳歌し、見知らぬ異国での冒険に心を踊らせていたのかもしれません。初期のシェイクスピア作品に歴史劇や外国の物語を翻案した喜劇が多いことも、当時の観客が求めた要素の反映と言えるのではないでしょうか。

階級を越えて人々が集う劇場の誕生と、識字率向上に伴う言葉への憧憬。こうした背景が重なって上流文化だった芝居は広く市民に受け入れられ、演劇ムーブメントを巻き起こしました。エリザベス朝演劇は優れた劇作家を輩出し、英語という言語の醸成にも一役買っています。

それを象徴するのが「theatre」という言葉。元々、古代ギリシャやローマの劇場・円形競技場を指したこの言葉が、いわゆる「劇場」という意味で最初に使われたのは1577年のこと。すなわち、前年に完成し、芝居小屋として観客を集めていたシアター座がきっかけで「theatre」という言葉に「劇場」という意味が加わったのだそう。

現代の私たちにも波及するほど、強い影響を持つ時代であったことを感じられるエピソードです。

Sasha

《参考文献》 C・ウォルター・ホッジズ、『絵で見るシェイクスピアの舞台』。研究社、2000年。 笹山隆、『ドラマと観客―観客反応の構造と戯曲の意味』。研究社、1982年。 玉泉八州男、『女王陛下の興行師たち』。芸立出版、1984年。 山田昭廣、『シェイクスピア時代の読者と観客』。名古屋大学出版会、2013年。