2026年3月14日に東京芸術劇場プレイハウスで開幕する舞台『るつぼ The Crucible』。17世紀の魔女裁判を題材にしたアーサー・ミラーの傑作戯曲で、主人公のジョン・プロクターに坂本昌行さんを迎えます。演出を手がけるのは、坂本さんと『Oslo(オスロ)』以来2度目のタッグとなる上村聡史さん。本作の上演に至るまでの経緯や、社会的な戯曲の演出を多く手がける想いについてお話を伺いました。
坂本昌行でなければ『るつぼ』の上演はなかった

−今回上演作品として『るつぼ』を選ばれた経緯についてお聞かせください。
「プロデューサーの矢羽々さんは台詞劇に大変深く興味を示されていて、そういった作品を商業的なベースに乗せ、『Oslo(オスロ)』や『野鴨 -Vildanden-』などで手応えがあったので、今回は僕から“『るつぼ』はどうでしょうか”と提案しました。
『るつぼ』という戯曲と出会ったのは、演劇研究所に在籍していた時です。アーサー・ミラーの代表作、『みんな我が子』『セールスマンの死』『るつぼ』『橋からの眺め』の4本の戯曲を読んだのですが、当時は20代前半で、自分が浅かった故によく理解できませんでした。
その後、27歳の時に初めてロンドンに観劇旅行に出かけた際、たまたまウエストエンドのギールグッド・シアターでロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの『るつぼ』(イアン・グレン主演、ドミニク・クック演出)が上演されていました。戯曲への苦手意識はあったものの、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの作品は一度観てみたいと思って、飛び込みでチケットを買ったんです。幕が開くと白い箱が現れて、箱の中からパリス牧師の祈りが聞こえました。白い箱が開くと、まるでセイラムの裁判の油絵を現出してくるかのような美しさが、そこにはありました。絵画のようなんだけれども、そこにはまさしくリアルに生きている人物たちがいました。20代前半で戯曲を読んだ時とは全く異なる印象を受けましたし、戯曲を読むことと観劇というのはこんなにも違うのかと衝撃を受けました。今、生きている俳優の声を通して、演劇は息づくものなのだと実感しました。
そしてアーサー・ミラーの『るつぼ』という作品は、人間の根源的かつ本能的な感情と、信仰や集団の中で振る舞おうとする理性との間で生まれるぶつかりを実直に見つめているんだなと思いました。それからは、いずれやってみたいなという思いを持っていたのですが、何せ名作ですし、英語圏ではタイムリースリラーと称されるように、社会性も強く、国内外で多く上演されています。日本でも数々の上演がある中で、それとは違った視点を持てるだろうか、自分が演出家としてどう切り込んでいけば良いのか、という思いがありました。それと同時に、この台詞を紡げる俳優というのはどういう俳優だろうかと、そのハードルの高さに悩みました。
『Oslo(オスロ)』でご一緒した坂本昌行さんは、それまでは陽の人というイメージだったのですが、もちろん陽な部分はありながらも、現場では黙々と、周りのみんなの動きを見ながら自分の立ち位置や演技を考える、常に全体の流れとキャッチボールする姿が印象的でした。そしてよく覚えているのは、『Oslo(オスロ)』での、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の交渉のシーンの稽古で、坂本さん演じるラーシェンの妻がセクシャルな目線で語られた時に“この場では怒って話を聞いていて良いんですよね”とさりげなくおっしゃったことです。後々考えると、僕は作品のテーマ上、対立構造だとか政治性に目が行っていたんですけど、坂本さんのその一言は「所詮、人間の本質って……」ということを突いたように感じました。そういう振る舞いを見ていて、坂本さんはすごく誠実で謙虚でもあるし、リーダー性もあるんだけれども、冷静な熱量を抱えている俳優だろうなと思いました。だからこそ、“『るつぼ』のジョン・プロクターはどうでしょうか”と、坂本さんにオファーしました。僕の中では、坂本さんでなければ『るつぼ』の上演はなかったと思っています」
−実際に坂本さんがジョン・プロクターに挑む様子を稽古場で見られていていかがですか。
「坂本さんらしいなと思ったのは、作中には悪霊・悪魔・魔女という台詞の使い分けがあるんですけれども、混乱するんですよね。悪霊と言わなくちゃいけないところで悪魔とおっしゃって、僕が“複雑ですみません”と言ったら、“いや良いんです、悪魔が悪霊を送り込むから”と。坂本さんの中でちゃんと具体的なイメージを持って台本を理解され、稽古場にいらっしゃっているのだなと実感して、やはり誠実で真摯な方だなと感じました」
天体が冷ややかに見つめる、変わらない人類の姿

−本作は実際に起きた魔女裁判を題材に、アーサー・ミラーが赤狩りへのアンチテーゼとして評価され、2001年には2001年の9.11同時多発テロを機にアメリカで再演されたことも話題となりました。現代の日本にも重なる部分が多いと思いますが、どのように演出しようと考えられていますか。
「舞台美術家の長田佳代子さんと最初にお話しした時、この作品には同調圧力、集団パニック、フェイクが真実になる、ポピュリズムの流動性と様々な側面がありますが、何かをピックアップして表現するというより、これがどういう空間で行われているかを見せたいというお話をしました。その上で、天体が冷ややかにこの人たちの揺れ動きを見ているようなしつらえにできませんかと。300年経って文明が進歩しても、所詮人間は変わっていない。その中でどうやって生きていくのか。そういったことを表現できたらと思っています」
−プロクター以外のキャラクターとキャストの魅力についても教えてください。
「まずは少女たち、中でもアビゲイルを瀧 七海さんが演じられます。戯曲を読むとどうしてもアビゲイルは魔女的な印象があるんですけれども、今回そうは作りたくなくて、なぜ少女たちがここまでの事柄を起こしてしまうかと言ったら、もちろん時代性もありますが、抑圧されていて、それが爆発してしまったということなんじゃないかと思います。やりようによってはアビゲイルがプロクターを唆したという見せ方もできますが、そうはしたくない。もしかしたらプロクターも現代で言えばハラスメントのようなことがあって、事件になってしまったのかもしれません。ただ台本ではアビゲイルはセクシャリティの強い役ではあるので、“ここで女を出さないで”という僕の要望に、すごく頑張って応えていただいています。アビゲイルは親を亡くし、使用人として働きながら、なにに生きがいを見つけたら良いのか分からない。そういったところに、プロクターと出会う。大きな事件へと繋がるアビゲイルのプロセスを丁寧に作っていただいています。
そして松崎祐介さんは、信仰を貫くか、命を尊うか、究極の選択で揺れる役です。松崎さんは“なぜ僕をキャスティングしたんですか”とおっしゃっていたんですけれども(笑)、あまりこういう作品をやったことのない方にヘイル牧師を演っていただきたいという思いがありました。信じてきたものを捨てて人の命を選択するまでにはどういう心境の変化があるのか、どういう開き直り方をするのか、というところを凄く考えていらっしゃいます。そのプロセスを大切に、冒頭とラストでは全く異なる人間になったかのように造られていて、やはり勘の良い方だなと。正しいと思っていたことが崩れていく様をどう松崎さんが演じるのか、楽しみにしていただきたいです。
前田亜季さんとはこれまで何度もご一緒していて、エリザベスという役と台本の本質を見抜いていらっしゃるなと感じます。“まっとうな人間らしさ”という台詞がエリザベスにあるのですが、フェイクが真実になる今の時代に、誠実さというのは再発見されて良いんじゃないかと僕は思っています。そういったテーマを任されている役ということを、前田さんはよく分かっていらっしゃる。貶めることが目的の告発−これは現代にも垣間見える嫌な部分ですが、その反対側にある誠実さ、人間らしさを実直に描くエリザベスに注目していただければと思います」
何かのためでなく、誰かのために。愛する人の前で、どういう自分でありたいか
−本作を初めて観るという観客も多いと思います。この作品をどのように届けたいと思われますか。
「少女たちのパニックや、大人たちの思惑というのは、現代と重なる部分も多いかと思います。ある種の嫌悪感を持つかもしれないけれど、それと同時に、どう己に正直に生きていくか、そして自分だけでなく、愛してくれる人や愛する人に対してどういう自分でありたいか、何かのためでなく誰かのために、ということが届いてくれたら嬉しいなと思います。
人と交流するというのは、どうしても恐れもあると思うんです。シンプルな感情で寄り添うことができる時もあれば、ある人やある瞬間にとってはなかなか難しかったりもする。その時に、自分は自分で良い、誠実であれば、いつかは愛する人が喜んでくれるかもしれない。誠実でいることも悪くはないと思ってもらえたら嬉しいですね。それは道徳的になるとか説教臭いことではなく、物を落とした人に“落ちましたよ”と声をかけるような、些細な誠実さで良くて。そういったことが、今の時代に価値があるんじゃないかと思います」
−上村さんは社会的な作品を演出されることが多いと思います。どういった思いが作品選びに影響していらっしゃるのでしょうか。
「演劇が社会に果たす役割というのを考えて、問題提起したいという気持ちもどこかにはあると思います。ただそれ以上に、僕が本来描きたいのは、人は抱かれれば温もりを感じるし、殴られれば苦しみや憎しみを感じるというシンプルなことだと思います。シンプルだけれど、そういった感情のリアクションに価値があるというか、面白くもあり悲しくもあるんじゃないかと思っていて。人の本質、生きているということは、そういうことの連続のような気がしています。それを舞台芸術で描く時、社会的要因というのか、大きなコミュニティから見ていくことで、最終的に人間が立ち戻れる場所や人って何なのか、そういったことを描きたいと思ってます。生活のなかのとても小さいことと、世界的に見ても社会的に見ても大きなことは、地続きであるはず。だから必然的にそういった作品が多くなっているのかなと思います」
−例えばスマホで手軽に観られる作品が増えているといった、エンタメの変化がある中で、演劇の立ち位置を考えられることはありますか。
「エンタメでも政治において、利便性や分かりやすさというのが大事になっているとは感じます。それはそれで良いと思うんですけれども、僕は天邪鬼なのか、いち個人としては、分かりやすさが、時として恣意的に誘動されてしまうかもしれないという恐怖もあります。人間関係ってシンプルにいく時もあれば、複雑化してしまう時もあるので。エンタメが分かりやすい方向に動いているとしても、僕はいち創り手として、自分が信じることを提示していたいです。そういった作品は、もしかしたら時代から取り残されるかもしれないけど、反対に、順応の方法も十分に可能性があると思っています。なぜなら同時代の演劇人や世界の演劇人や芸術家たちがそういった方法を示しているので。そのあたりの探求は、僕自身も留まることなく、これからもやっていきたいなと強く思います」

『るつぼ The Crucible』は2026年3月14日(土)から3月29日(日)まで東京芸術劇場プレイハウス、4月3日(金)から4月5日(日)まで兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール、4月11日(土)から4月12日(日)まで穂の国とよはし芸術劇場PLAT 主ホールにて上演されます。公式HPはこちら
“告発”が増えてしまっている今、『るつぼ The Crucible』は大きな上演意義を持っていると感じます。上村さん演出作品を拝見すると、いつも普段は目を背けてしまっていることから「逃がしてくれない」鋭さを感じます。今回もまた、その鋭さと劇場で向き合いたいと思います。


















