コロナ禍に「不要不急」とされた演劇。きらびやかに見えて実は地道な営みをメタシアター的に描く劇団「マームとジプシー」の新作『Curtain Call』が、2025年5月8日~11日まで、東京・新宿のイベントスペース、LUMINE0(ルミネゼロ)で上演されます。劇団主宰者で作・演出を担当する演劇作家・藤田貴大さんに、フィクションのフィルターを外して演劇そのものをテーマにした新たな挑戦や、タイトルに込めた思いなどについて話を伺いました。

「演劇」という「営み」をストレートに描く

【作品のプロット】
劇場に到着した俳優が、ウォーミングアップをして、衣装やヘアメイクを整える。舞台監督や照明、音響などのスタッフも、本番に向けて準備を進める。それぞれの視点から、同じシーンを繰り返していく。いよいよ劇中劇の幕が上がると同時に、『Curtain Call』は終わりを迎える―。

―観客からすると、これからどんな演目をやるのだろうという期待が膨らんだところで終わるのですね。
「そうです。準備してきた演目は何だったのかについては、観客たちに委ねたまま終演する。そして本当のカーテンコールが訪れる―。それがやりたいんですよ。そこに向けて開演するまでの数時間を、ただ淡々と描いていきます」

―狙いはどこにあるのでしょうか。
「映画なら本当の朝日を撮影すれば出せるけれど、演劇はそうはいきません。朝日とは何かということを照明家と話し合って決めていきます。原理的な世界を構成しているものをゼロから立ち上げ、地道な作業を積み重ねて、皆さんが見てくれる1回のステージを作り上げていく。それが演劇の面白さです。その営みを、観客の皆さんそれぞれの生活と重ねてくれたらいいなと思っています。そこを一番観客と確かめたいです」

―この作品を着想したきっかけの一つに、コロナ禍での経験があるとお伺いしました。
「危機的状況に陥ったとき、僕の仕事である演劇はこういうことになるんだと痛感しました。「不要不急」と言われたけれど、僕たちにとっては生業(なりわい)であるわけで。社会と僕らのやっていることとの間に断絶を感じてしまったというのがありましたね」

―藤田さんは、沖縄戦を題材にした『cocoon』、今を生きる沖縄の人々を描いた『Light house』など、多種多様なモティーフを綿密に探った上でフィクションに昇華し、演劇作品を創作してきました。新作では「フィクションというフィルターを外し、『演劇』というありのままの自身の『営み』を舞台上で直接見せることに挑戦」するとのことですね。
「マームとジプシーはこれまで暴力とは何か、戦争とは何かということについて、積極的に扱ってきました。僕の演劇表現の中でどういう態度を取れるか、ずっと探ってきたところです。演劇はある程度、フィクションを扱うところに一つのアイデンティティーがある。でも、今はフィクションが現実の強度に負かされているというか、フィクションよりも現実の方が信じられないことが起きています」

「うそみたいなことが本当に起きている」世界情勢の中で

―今の世界の状況について、どう受け止めていますか。
「パレスチナ自治区ガザでの戦闘など、世界情勢を見ると暴力がまかり通っています。トランプ米大統領の言動一つで状況が反転するとか。うそみたいなことが本当に起きている。何かを描くことはうそを持ち出すことになるけれど、そのうそは、ちょっとしたことでは(現実に対して)対峙できないのではないか。「今」を表現するときに、うそっぽいことはできなくなってきた。そこに対しての危機感はどうしても増してきたというのはありますね」

―まさに「この世の関節が外れている」状況ですね。
「「今」だからこそもっと率直に、自分の一番近いところにある演劇というものを扱うべきじゃないのか。演劇とはこういう営みだということを、僕の口から観客に伝えることが重要なのではないかと考えているところです。結構、最終手段みたいな状態だと思うんですけど(笑)」

―藤田さんの自伝的小説『T/S』(2024年)の中に、「わたしには演劇しかなかった。演劇以外で、なにかに気づかされたこととかなかった」という一文が出てきます。少年時代からひたすら演劇と向き合ってこられました。
「僕自身、演劇に救われてきた部分がある。演劇とは何か?ということを描くこと自体、僕がここまで生きた意味にもつながっています」

―『T/S』では、演劇の醍醐味の一つは同時代性だと書かれています。
「演劇って、思いのクロスオーバーの仕方が、メチャクチャ早いメディアだと思うんですよ。映画は撮影後に、編集という推敲を経て上映されます。でも、演劇は「今」という時間しかない。劇場に集う観客や俳優、スタッフたちは全員、今朝のニュースを知っているし、「今」というダイヤルに合わせてくるわけですから」

―しかし、「今」にフォーカスする演劇が社会に与える影響は、年々低下しているように思います。1960年代の政治の季節に盛り上がった小劇場運動に対して、あこがれや羨望を抱く後の世代も多いのではないでしょうか。   
「それは僕もありますね。昨年亡くなった唐(十郎)さんたちの話を書籍で読むと、今よりも大胆に、「今」という時間とつながっていた、もしくはつながらざるを得なかったように思います。『蜷の綿』という戯曲を書くために蜷川(幸雄)さんにインタビューしたとき、『自分は学生運動に積極的に参加できるタイプではなかった。仲間たちが過激な方へいったとき、実はそれを引いた目で見ていた』と話していました。いろいろな葛藤が流れ込んでいた時代だったと思います」

―では、藤田さんの世代はどうでしょうか。
「僕らの世代というか、僕自身は(20代半ばだったときに)2011年に東日本大震災が起きて、社会というものに対して引いた目で見られないところがあった。そのときに蜷川さんたちの演劇を勉強して、僕も社会や政治に向き合ってもいいんだという勇気をもらいました。蜷川さんが僕の芝居を見にきてくれたときに、『あの頃の演劇を思い出した』と言ってくれました。社会派劇をやっているわけではないのですが、1960年代の演劇と共通するところがあるとするならば、内容ではなくて熱量みたいなところかなと思います」

「私」と「あなた」を隔てるライン

撮影:鳩羽風子

― 『Curtain Call』というタイトルに込めた思いは。
「カーテンコールとは、実はとても難しい言葉で、国によっても意味が違います。(一般的には)観客が拍手などでシグナルを送り、いったんカーテンの奥や楽屋まで退場した出演者を舞台に呼び戻す意味らしいです。「カーテン」と「コール」で分けて考えると、「カーテン」というのは緞帳や幕だし、「コール」は伝えるためのシグナルという意味ですよね」

―それを聞いて、カーテンの「幕」は「膜」にも通じるのではと思いつきました。虚と実を隔てる「膜」のイメージが浮かびました。
「そうですね。私とあなたを隔てるものでもあるし。祖母が白内障になったとき、『白いレースのカーテンが垂れ下がっている感じなんだよね』と言っていました。目を閉じるのは、秘密のようなものを自分の中に抱えていないと、人っていけないんじゃないかとか。それと似た部分が、楽屋と舞台と客席の間にはあるような気がします。その中でどういうふうにラインを引くのか…」

―境界線を引くということでしょうか。
「そうです。私とあなたの間に引かれる線が、今の社会では、どんどん強く、複雑になっている気がします。トランプ米大統領がメキシコ国境の壁を建てたように」

―膜やカーテンなら行き来できますけど…。
「いろいろなラインがもっと現代的になると思ったら、新しい時代に逆行して壁ができあがってしまった感じ。そんな時代にカーテンというテーマはすごくいいなと思いました」

―5人のキャストの皆さんについてご紹介ください。
「青柳(いづみ)さん、石井(亮介)さん、成田(亜佑美)さんの3人とは18のときから一緒にやっています。長谷川(七虹)さんと渋谷(釆郁)さんは今回初めて。キャストは想像した通りに良かったですね。偶然にも5人とも見事に背丈が一緒ぐらい。いいビジュアルがつくれそうです」

―最後に読者や観客の皆さんにメッセージを。
「演劇という媒体がどんどん距離のあるものになっているようだけれど、開演時間に合わせて劇場まで足を運んでくれる人たちと一つの時間をつくりたい。新宿駅直結の会場なので、敷居が高いと思わずに来てほしいです」

舞台『Curtain Call』は2025年5月8日~11日までLUMINE0(ルミネゼロ)にて上演。公式HPはこちら

鳩羽風子

今年は戦後80年。「80年もたったのではなく、80年しかたっていない。新たな戦前という空気も感じます」と藤田さん。演劇を介して、今という時代に真摯に向き合ってきた演劇作家の渾身の新作に注目したいと思います。