世界的に知られる俳人・小林一茶の「空白の10年」を大胆に描くオリジナルミュージカル『ISSA in Paris』。トニー賞を2度受賞したミュージカル界の巨匠で、日本文学に造詣の深いモーリー・イェストン氏が描いた本作は、現代のシンガーソングライターと若き日の一茶が時代を超えて出会うファンタジックな物語です。このミュージカルで重要人物となる小林一茶とは、一体どんな人物なのでしょうか。本記事では、一茶の生きた時代背景や人物像、そして特に有名な俳句について解説します。

小林一茶とは?庶民の心を詠んだ異色の俳人

小林一茶(1763-1828)は、江戸時代後期に活躍した俳人です。当時の俳句界では、古典作品や花鳥風月を題材に俳句を詠むことが主流でしたが、一茶は庶民の生活の中で生まれる感情や何気ない出来事を俳句にしました。この生き生きした作風は「一茶調」として知られています。

一茶は1763(宝暦13)年、信濃国柏原(現在の長野県)で農家の長男として生まれました。本名は弥太郎と言います。わずか3歳の頃に生母・くにが亡くなり、8歳の時に継母・さつがやってきました。その後、異母兄弟の仙六が生まれると、一茶は継母にいじめられるように。

そして15歳の春、一茶は江戸に奉公に出されることになります。当時は、長男が奉公に出されることは極めて稀なことでした。

その後10年間、一茶の消息は不明となっています。謎の空白期間を経て、1787(天明7)年、当時25歳だった一茶は俳句の道を志し、「葛飾派」という流派に所属して、句を詠み始めたのでした。

ミュージカル『ISSA in Paris』では、この「空白の10年間」がフォーカスされています。史実では謎に包まれたこの期間に、一体何があったのでしょうか。

一茶は39歳の時に父を亡くし、10年以上にわたって継母・弟との財産争いが続きます。52歳で、28歳の妻を迎えるものの、4人の子どもは若くして亡くし、妻も37歳の若さで亡くなるという悲劇が。その後、再々婚をしますが、亡くなる数ヶ月前には大火によって母屋を失い、焼け残った土蔵に住んでいました。

小林一茶が生きたのはどんな時代?繁栄と混乱の江戸時代後期

一茶の生きていた時代には、徳川家斉(1773-1841)が将軍を務めていました。家斉はなんと20人以上もの側室を持ち、55人の子どもをもうけたといいます。彼らの生活のために、幕府は膨大な維持費を確保しなければなりませんでした。

そんな家斉は、息子に将軍の座を譲っても、大御所として幕府の政治に大きな影響を与えていました。そして、幕府内では賄賂(わいろ)が横行するなど、政治が腐敗していきます。これらのことから、1793年から家斉死去までの1841年は「大御所時代」と呼ばれています。

財政難を抱える幕府でしたが、江戸では浮世絵や歌舞伎などの町人文化が活発になり、化政文化が花開くことになりました。

その一方で、1833(天保4)年頃から全国を襲った「天保の飢饉(ききん)」では、冷害によって深刻な凶作となり、多数の餓死者を出したほか、全国で一揆や打ちこわしなどが立て続けに起こりました。

また、当時の日本は鎖国中でしたが、ロシアやイギリスなどの外国船が接近したり、アヘン戦争が勃発したりと、外交的にも非常に不安定な時期だったのです。長崎・出島でオランダとの貿易が許可されていたことは、ミュージカル『ISSA in Paris』作中でも描かれています。

不安定な世の中を生きながら、一茶は悩みや苦しみ、そして喜びといった感情を、たくさんの俳句に込めたのでした。

小林一茶の有名俳句7選。心に響く「一茶調」を紹介

一茶は生涯で2万句を超える俳句を詠んだとされ、その中には現代でも多くの人に愛される名句が数多くあります。身近な動物や自然を題材にしながら、個人的な感情を率直に表現した一茶の俳句は、現代の私たちの心にも深く響くのではないでしょうか。ここからは、一茶の人柄や人生が色濃く反映された代表的な作品を7つご紹介します。

「雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る」

一茶の魅力が前面に出た一句で、現代でも世代を超えて多くの人々に愛されています。

雀(すずめ)も馬も、人間にとって身近な生き物です。特に当時の農村では、馬は人間を手助けしてくれる家族の一員のような存在でした。

馬を連れて歩いている人が、道に群がる雀たちに注意をしている様子が目に浮かび、微笑ましい気持ちになります。「そこのけ」=「そこにいると危ないよ」という優しい呼びかけであるのも印象的です。

「露の世は 露の世ながら さりながら」

この句が詠まれた背景には、一茶の長女「さと」がわずか2歳で死んでしまったという悲劇がありました。

大切に育ててきた娘の死は、一茶の心にどれほど突き刺さったことでしょう。繰り返される「露の世」という言葉が、現世の儚さや一茶の虚しさを表し、「さりながら」で無念さを絞り出しています。

また、一茶はこの後も、長男「石太郎」、三男「金三郎」を相次いで亡くすことになりました。

ミュージカル『ISSA in Paris』では、主人公の海人が一茶との繋がりを意識することになる重要な一句として使用されています。

「かたつむり そろそろ登れ 富士の山」

この俳句は、一茶が亡くなってから2年後の1829(文政12)年に一茶の門人たちが編集した『一茶発句集(文政版)』に収録されたものです。

一見すると、かたつむりが富士山を登るのは無謀なことのように思えるかもしれません。 

しかし「そろそろ(ゆっくり)登れ」という言葉に、一茶が小さな生き物へ向けた優しい眼差しが感じられます。

決して速いスピードではないけれど、確実に歩みを進めるかたつむりの姿を想像すると、なんだか勇気をもらえるような一句です。

こちらの句も「露の世は 露の世ながら さりながら」と同様に、ミュージカル『ISSA in Paris』に登場します。どの場面で詠まれるのか、ぜひ注目してみてください。

「雪とけて 村いっぱいの 子ども哉(かな)」

一茶が生まれ育った信濃は豪雪地帯でした。厳しい雪国に生きる人々は、長い冬をじっと堪え忍んでいたのかもしれません。

長い冬が終わり、春がやってきて、子どもたちが喜びいっぱいに駆け出していく様子が生き生きと描かれています。

一茶は当時としてはあまりにも個人的な感情を表現しており、時に「ひねくれ一茶」と呼ばれることもあります。しかし、その感情がこのようにのびやかな句を生み出しているのではないでしょうか。

「父ありて 明けぼの見たし 青田原」

一茶の名作として知られる『父の終焉日記』の最後に登場する一句です。

『父の終焉日記』は日記の形式をとり、父の看病中に勃発した遺産争いなどが綴られました。このように個人的な内面を描写する作風は、明治期に栄えた「自然主義文学」の先駆けとも言われています。

一茶の父はその生涯を農業と共に生きました。そんな父の葬送の場で、青々とした水田の姿を詠んだ一茶の描写力が光ります。

「我ときて 遊べや親の ない雀」

1819(文政2)年に発表された句文集『おらが春』に登場します。俳人としての小林一茶の人生が詰まっている、と言われるほどの名句です。

特に「親のない雀」が注目ポイントで、わずか3歳にして母親と死別した自身を投影していると考えられています。その証拠に、この句では、一茶は幼名の「六才弥太郎」と記しました。

詩人・小説家の島崎藤村(1872-1943)は、自分の気持ちを前面に出して表現した一茶を「自己を打ち立てていった詩人」と評価しています。

一茶は江戸時代の人物でありながら、近現代の私たちにとって非常に身近な感性を持っていたと言えるでしょう。

「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」

最後に紹介するのは、弱いものに寄り添う愛情が溢れた一句です。

雀やかたつむり、小さな子どもたちに、痩せた蛙。弱くて小さいものへ向けられた一茶の視点こそが、彼の俳句が後年の私たちにも深く愛される理由なのかもしれません。

この句の前書きには「蛙たたかひ見ニまかる」とあります。つまり、メスを巡って争うオスの繁殖行動を見ていたということです。一茶は、力が弱くて戦いからはじき出されてしまった1匹に向け、声援を送ったのでしょう。

この句が生まれた背景には、生母との死別や家族との折り合いの悪さ、最愛の子どもたちの死など、数々の悲しみに襲われた一茶の人生が投影されていると言われています。

ミュージカル『ISSA in Paris』でも印象的に登場する句です。一茶の「自画像」だとも言われるこの句の魅力を堪能してください。

参考書籍:
『ビギナーズ・クラシック日本の古典 小林一茶』編:大谷弘至(角川ソフィア文庫)
『我と来て遊べや親のない雀』著・編集:花嶋堯春(童話屋)

ミュージカル『ISSA in Paris』は2026年1月10日(土)から30日(金)まで東京・日生劇場、2月7日(土)から15日(日)まで大阪・梅田芸術劇場メインホール、2月21日(土)から25日(水)まで愛知・御園座で上演されます。公式HPはこちら

糸崎 舞

江戸時代の人が詠んだ俳句なのに、一茶の句は現代の私たちの心にスッと入ってきます。庶民的な感覚と素直な感情表現がそうさせるのでしょうか。 そして一茶の生涯や当時の時代背景を知れば知るほど、若き日の「空白の10年間」が気になりますね。