ミヒャエル・クンツェとシルヴェスター・リーヴァイのタッグによって生まれたウィーンミュージカル『エリザベート』。

ハプスブルク帝国最後の皇后となったエリザベートと、彼女を愛した黄泉の帝王トート(死)の禁じられた愛を描いた作品です。1996年に宝塚劇団によって日本で初上演され、2000年には東宝版で上演されました。どちらも初演以来、多くの観客を魅了し続けています。

主人公エリザベートは、実在した女性でした。彼女は一体、どんな人生を送ったのでしょうか?その波乱に満ちた生涯と、作品の時代背景を紐解いていきましょう。

エリザベートが生きた時代は?激動のヨーロッパ

そもそも、エリザベートが生きたのはどんな時代だったのでしょうか。

1848年、フランスで起こった「二月革命」をきっかけに、ヨーロッパ諸国でさまざまな革命が起こりました。ヨーロッパ全土では自由主義やナショナリズムなどの運動が盛んになり、オーストリアでも「三月革命」が起こり、宰相が失脚しました。

そのような混乱下において、わずか18歳という若さでオーストリア皇帝に即位したのが、フランツ・ヨーゼフでした。この若き皇帝が、後にエリザベートの夫となる人物です。

非常に不安定な情勢のなか、エリザベートはオーストリアの皇后となったのでした。

自由な子供時代からフランツ・ヨーゼフとの結婚へ

エリザベートは、1837年、ヨーロッパ王族の名門であるバイエルン王国の公爵マクシミリアンと、ルドヴィカ王女の第3子として誕生しました。

高い身分に生まれたエリザベートでしたが、父マクシミリアンは子どもたちを自由にのびのびと育てました。エリザベートは山道を歩いたり乗馬したり、アクティブな子供時代を過ごしたのです。また、絵を描いたり文章を書くのも好きで、非常に創造的な子供でした。

そんなエリザベートが15歳になった1853年、彼女は19歳の姉・ヘレーナのお見合いへ同伴することになりました。この時のヘレーナのお見合い相手というのが、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ。

なんと、フランツ・ヨーゼフはお見合い相手のヘレーナではなく、同席していたエリザベートの生き生きした魅力に心を奪われてしまいました。

その後の舞踏会で、母と姉とともに皇帝の前へ進み出たエリザベート。当時の宮廷の作法では、深く腰をかがめて一礼するのが習わしでした。しかしエリザベートは、突然手を差し出し、フランツ・ヨーゼフに握手を求めたという逸話が残っています。

その日のうちにプロポーズされ、エリザベートの人生は急激に動き始めたのでした。

姑・ゾフィーとの対立。自由を奪われたエリザベート

エリザベートの宮廷での生活を語る上で外せないのが、フランツ・ヨーゼフの母であるゾフィーです。

ミュージカル『エリザベート』でも強烈なキャラクターとして登場する彼女は、エリザベートの伯母でもあります。ゾフィーとエリザベートの母ルドヴィカは姉妹だったのです。

ゾフィーはバイエルン王マクシミリアン1世の5女で、1824年に名門ハプスブルク家のフランツ・カールへと嫁ぎました。

しかし、フランツ・カールが病弱だったこと、ゾフィーが何度か流産を経験していたことから、なかなか子宝には恵まれませんでした。

そのような苦悩の中、ようやく誕生したのが、エリザベートの夫となったフランツ・ヨーゼフでした。ゾフィーは、何百年もの歴史を築き上げながらも、次第に衰退しつつあったハプスブルク家の威信復活を目指し、さまざまな策を講じていたのです。

そのような考えを持つゾフィーが、エリザベートに皇后としての教育をきっちり施そうとしたのは自然なことでした。しかし、これまで自然や動物と共に自由に育ってきたエリザベートにとって、これは耐え難い苦痛となったのでした。

夫とのすれ違いと自由への渇望、そして旅へ

次第にすれ違っていくエリザベートとゾフィー。フランツ・ヨーゼフは、妻と母の嫁姑問題をどのように見ていたのでしょうか。

結婚後、皇帝であるフランツ・ヨーゼフは、日々の公務に忙殺されていました。新婚早々に、ロシア帝国と、オスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ王国からなる連合軍との間でクリミア戦争が勃発したからです。

オーストリアは中立を保ったものの、オーストリアを抱き込もうとしたロシア帝国と緊張した関係になり、次第に二国間に影を落としていきました。

フランツ・ヨーゼフは生涯エリザベートを愛し、夫婦仲も良好でした。しかし、このような政局のため、家庭内のことに目を向ける余裕がなかったのです。エリザベートは公務に追われる夫に対し、寂しさと悲しみを募らせていきました。

やがて、エリザベートは心身のバランスを崩し、病床に伏すようになりました。侍医から気候の良い場所での療養を進言されたことをきっかけに、エリザベートは人生を通してさまざまな場所へと旅をすることになるのでした。

エリザベートは、生涯にわたってさまざまな国や地域を訪問しました。オーストリア国内の各地はもちろんのこと、ドイツやハンガリー、チェコ、ルーマニアにギリシャ、そしてイタリアまで。窮屈な宮廷から逃げるように、アイルランド、スペイン、エジプトやポルトガルにも足を運んだのです。

皇太子ルドルフの死とエリザベートの最期

そんな中、エリザベートの人生において最大の悲劇が起こります。

1889年、息子である皇太子ルドルフが、マリー・ヴェッツラという男爵公女と心中してしまったのです。真相は謎に包まれているものの、生前のルドルフが父と対立していたことから、反フランツ・ヨーゼフ派による偽装自殺ではないか、という説も存在しています。

ルドルフが自殺してからのエリザベートの悲嘆はあまりにも深く、放浪癖はますます加速していきました。常に喪服を身にまとい、各地を旅するエリザベート。国内ではエリザベートの人気は高く、喪服はいつしか彼女のトレードマークとなりました。

そして1898年9月10日、エリザベートの人生は突然幕を下ろすことになりました。

スイスのジュネーブにあるレマン湖のほとりで、イタリア人のテロリストに襲われ、心臓を一突きされてしまったのです。そのわずか1時間後、手当の甲斐もむなしく、エリザベートは61年の生涯を終えました。

エリザベートの死後も、フランツ・ヨーゼフは国家の業務をこなし、堅実な皇帝として68年にわたる在位を担いました。

しかし、彼が亡くなる2年前の1914年には「サラエボ事件」をきっかけにして第一次世界大戦が始まりました。オーストリアは第一次世界大戦に敗北し、約700年にわたるハプスブルク家の君主国家の時代は終わったのでした。

参考書籍:
『皇妃エリザベート その名はシシィ』著:南川三治郎、序文:塚本哲也(河出書房新社)
『姫君の世界史 エリザベートと黄昏のハプスブルク帝国』著:小宮正安 (創元社)

糸崎 舞

激動の人生を駆け抜けたエリザベート。彼女の生き様がミュージカルとなり、世界中の人々に愛されているのも納得がいきます。彼女は生涯、真の幸福を手にしたことはあったのでしょうか……。切ない気持ちになります。