小川洋子さんによる小説で、第一回本屋大賞を受賞したミリオンセラー作品の『博士の愛した数式』(新潮文庫刊)。映画化もされている本作が、2023年2月に長野県松本と東京で上演されます。この上演に伴い、「博士」を演じる俳優・演出家・舞台美術家の串田和美さんと、「私」を演じる安藤聖さんへのインタビューが実現しました。

80歳になっても、いつでも「お芝居は毎回初めまして」

『博士の愛した数式』は、交通事故による脳の損傷をきっかけに、記憶が80分しか持続しなくなってしまった元数学者の「博士」。そして、彼の新しい家政婦である「私」と、その息子「ルート」が織りなす、美しい数式と驚きと悦びに満ちた日々を描いた悲しくも温かい愛の物語です。


ー稽古が始まっていますが、実際に演じてみてお互いの印象はいかがですか?

安藤「それはもう串田さんですから!もうすっかり博士なんですよ」

串田「博士って、困った人だよね(笑)。博士で役を作るのは大変!忘れちゃう人なもんだから、セリフもそのせいにして(笑)」

安藤「そこはダメですよ!(笑)」

串田「(安藤さんは)支えてくれている。本当に」

安藤「家政婦ですから!」

串田「歳も、もう80になって。ワクワクすることもあるし、恐ろしいこともあるし、80歳の新入生みたいな。お芝居は、何年やろうが何本やろうが変わらないね。ずっと初めまして」

安藤「でもそれが楽しいんですよね、今回はこういう人に出会ったとか、こういう物語に出会ったとか」

串田「知らない道を歩く。毎回ね、どんな芝居でもそう。そして、出会うのが楽しいですね」

安藤「それは本当に思います」

写真:山本春花

ー本作の演出を務めるのは、劇団た組の加藤拓也さんです。舞台『ザ・ウェルキン』『もはやしずか』で、第30回読売演劇大賞演出家賞部門優秀賞を受賞するなど、今注目の演出家である加藤さんの演出はいかがですか?

串田「安藤さんは、加藤さんの演出は初めて?」

安藤「初めてです。次から次へと良くもいろんな発想が出てくるなと思っています」

串田「僕は、彼が24歳の時だったかな。お芝居に出てくださいませんか?って電話がかかってきて。それなら会わなきゃいけないねって吉祥寺で待ち合わせをして、会った。
本当にお芝居を一緒にやりたいっていう人から声がかかったのがすごく嬉しくって。シンプルな、本来の出会い方をして、二人で話した時間がすごくいい時間だったわけですよ。それで、一緒に作品をやったんだけど、作り方が違うから、戸惑ったり。今回また一緒に作ることになって。変わったね、彼も」

安藤「そうですか!」

串田「その時はね、ノート(※)をやりますっていうとみんなバラバラに待っていて、その人のそばに行って小さい声でコソコソっと話していた。
でも、他の俳優に言っていることも大切だから、それ聞きたい!って思っていた。(笑)
今回はそうじゃなく、全員に対して話すからすごくやりやすい」

※ノート:シーン稽古や通しの後に、修正点や演出上の要望・変更点、感想などを伝えること。

安藤「そうなんですよね。みんなでシェアしようっていう。加藤くんのお芝居を見ていると、もっと日常的な会話の仕方、いわゆる現代口語演劇のお芝居を作っているけれど、今回は言葉がそことはまた違っていて。これもきっと彼の挑戦なのかと。私自身も楽しませてもらっています」

「忘れちゃった方が身体に染み込んでいるのかもしれない」

ー『博士の愛した数式』という作品についてどのような印象をお持ちですか?

串田「小説が出たばかりの頃に読んで、やりたいなって頭の中で思っていて。そんなことも忘れている頃に加藤くんと芝居した時に、なぜかその話になって、「僕は(『博士の愛した数式』を)上演したことがあるけど、もう一回やりたいんです」「いつかやろうよ」と話したのが何年か前の話です」

安藤「そうだったんですか!」

写真:山本春花

串田「“記憶”という不思議なものにすごくこだわる話だよね。一番古い記憶って何?」

安藤「3歳ごろですかね。でも、楽しかったことよりも、嫌だったことの記憶がなぜか残りませんか?男の子にぶたれたとか、プールで男の子に頭押さえつけられて上がって来れなくて苦しくて死にそうになったとか、そんな記憶です。串田さんは?」

串田「僕はね、終戦が3歳だったの。大人にとっては重い話なんだけれど、子供にとってはそういう概念がないから。生まれた時が戦争中だから、焼夷弾とか落ちている様子を「綺麗だなぁ」とか」

安藤「えぇ!」

串田「だから、そんなに嫌じゃなかった。3歳の誕生日が広島に原爆が落ちた日でね、疎開先の山形にいて。戦争が終わって、近所のおばさんに、村芝居みたいなものに連れて行ってもらった記憶がすごくある。むしろで囲っていて、歌舞伎っぽい。(観た村芝居は)題名もわからないし、両親が一緒じゃなかったから、それがなんなのかも確かめられないけれど」

安藤「いや、素晴らしい!そこでもう、運命的な出会いというか」

串田「その時は全然思わなかったけど、今思うとあそこからかなとかって」

安藤「絶対そうですよ!」

串田「その時のことは覚えているかなぁ。記憶って変だよね。昨日か一昨日、入り口で鍵の番号が分からなくなって大騒ぎしていたのに。(笑)
覚えておかなきゃいけない記憶だらけなんだけれど、覚えてなくてもいいのに覚えていることとか、そういうのっていいなぁって思う。逆に、忘れてしまうということの良さもある。忘れちゃった方が、体に染み込んでいるのかもしれないっていう感じとか。そんなことを今考えています」

「解釈しようとせずに、鑑賞してほしい」

ー『博士の愛した数式』は小川洋子さんの原作小説がミリオンセラー、映画化もされている作品です。本作の持つ魅力はなんでしょうか?

安藤「映画版では美しくて、暖かくて、静かで、観ている側もとても胸が熱くなる、みたいな印象があったんですけれど。原作を読んだ時に、なんかミステリアスで、ちょっと妙っていう印象を受けました」

串田「なんだか不思議なね。どこか切ないし、ハッピーでもないし、だからって悲惨でもないし。
博士の住む離れを誰かが覗いているって、なんかちょと色っぽいような、どこか切ない匂いのするお話だなと。義理のお姉さんとなんかあるんじゃないかって途中で思ったり、はっきりしない感じが良いですよね」

安藤「加藤くんがとてもいい表現をしていたじゃないですか。“静かな湖を触ろうと思って手を入れてみたら毒があった”っていうのが、見事にこの作品を表現してくれたなぁと感じています。本当にその通り。静かで穏やかそうなのに、ちょっと足を踏み入れてみると結構ドロドロしているぞみたいな。そこが魅力かなぁと思いますね」

写真:山本春花

安藤「「私」という役を演じていて、原作も映画も一見自立していて、クレバーでそして愛情深い人間みたいな映り方をしているように感じたのですけれど、そんなことないんですよね。台本を読み込んでいくと、すごく幼い部分があったり。
そもそも博士みたいな人を好きになっちゃう、そこにこういってしまうっていうことからして、私からすると「おいおい!」って感じなんですよ。紙を洋服にいっぱい貼り付けていて、フケだらけで、お風呂も入ってないとか、嫌じゃない?(笑)
不思議な部分でもあり、お客さんたちは物語の登場人物たちをどう受け止めて受け取ってくれても構わない。美しいと思ってくれても、それはないでしょって受け取ってくれても構わないし」

串田「犬飼いたい時に、立派な名前のある犬より野良犬みたいなこっちの方が好きって人もいるわけじゃない。なんでこんな犬がいいのって。そういう感じがありますよね。「私」は博士を好きになったっていう自覚もしていないし」

安藤「そう、自覚をしていない」

串田「でも世話しちゃうとか、辞めさせられる時に、やっと楽になるんだからいいはずなのに「なんで!」ってすごく怒る」

安藤「本当にそうなんですよ!辞めさせられた後に、ルートが博士の家に遊びに行ってしまうじゃないですか。怒られにいくのに、「また博士に会える!嬉しい!」って喜んでいたりするんですよ。その後も何年にもわたってずっと、覚えてもらえないのに会いにいくわけじゃないですか。不思議な女の人だなぁと思って。原作にも彼女自身のバックボーンは全く描かれていないので、どんな親に育てられたかとか、前の旦那さんはどんな人だったのか。そういうのもいろんな可能性を楽しみながら決め込まずに演じたいなと思っています」

写真:山本春花

ー本作からお客様にどんなことを感じ取って欲しいですか?

安藤「現代は、核家族化とか、情報社会化とか、コロナ禍ということもあって、どうしても人と人とのつながり方が希薄になっていると私は思うんです。原作を読んで、妙な関係ではあるんですけれど、それでも人と人で目と目でちゃんと目と目を合わせて会話をして、関係を築いていくというのは美しいなと思っています。なので、そういう部分をみなさんにも経験してもらえたら嬉しいです」

串田「空気かな。今回ここに漂う不思議な空気。人が関わろうとしている中の空気みたいな。加藤くんもよく言っているけれど、解釈しようとしないで鑑賞していてほしい。間口が綺麗だなぁとか春だなとか、冬もいいなぁという鑑賞。
もちろんストーリーもあったり、状況とか情勢、事情とかが絡んでいくんだけど、それも風景のひとつ」

安藤「どこをどう受け取ってくれても。お客さんも、与えられたものをちゃんと受け取るだけじゃなくて、一緒に、劇場の空気感を作ってくれたら」

舞台『博士の愛した数式』は2月11日(土)〜16日(木)長野・まつもと市民芸術館小ホール、2月19日(日)〜26日(日)東京・東京芸術劇場シアターウエストにて上演です。公式HPはこちら。(当日券若干枚数あり)

ミワ

一番古い「記憶」についてや、作品やご自身の役についての印象など興味深いお話をたくさんしてくださったお二人。和やかな雰囲気の中で、スッと大切なお話が出てくる関係性が素敵でした。