ミュージカル『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』が、8年ぶりに上演されます。18世紀のイギリスを舞台にしたダーク・ミュージカルですが、当時のイギリスはどんな時代だったのでしょうか。『スウィーニー・トッド』は1979年にブロードウェイで初演され、日本では1981年に初演。その後、2007年に宮本亜門さんが演出する現バージョンが上演され、市村正親さんと大竹しのぶさんの主演で再演を繰り返してきました。今回が5回目の上演です。

不潔で猥雑な産業革命時代のロンドン

判事ターピンに無実の罪を着せられた理髪師のベンジャミン・バーカーは、15年ぶりにロンドンに戻ってきます。そこで彼の床屋の1階でパイ屋を営むミセス・ラヴェットから妻が死に、娘のジョアンナはターピンに養育されていることを知らされたベンジャミンは復讐を決意。スウィーニー・トッドと名乗って床屋を再開しますが、剃刀で訪れた客の喉を掻き切って殺害し、ミセス・ラヴェットがその肉をパイにして売るという、おぞましい共犯関係による復讐劇が始まるというホラーな劇です。

『スウィーニー・トッド』とは、もとは19世紀のロンドンの怪奇小説に登場するキャラクターでした。客を剃刀で殺害し、死体は2階の床屋から下に落とされ、パイにされるという伝説はすでにこの時代に生まれていました。1997年にはブロードウェイ版をもとにした映画も公開され、ヴィクトリア時代のロンドンを舞台にジョニー・デップがトッドを演じました。

宮本亜門さんによる日本版では、時代設定は19世紀ではなく18世紀末になっています。産業革命が始まりイギリスの経済が急成長する時代ですが、史実のロンドンはその光と同じくらいに闇も濃く、不潔で治安は悪く、陰惨でもありました。

産業革命で農業から工業へ労働力の転移が起こると、仕事を求めた労働者はロンドンにも集中し、1700年に約50万人だったロンドンの人口は1800年に約100万人、1850年には230~240万人にまで激増します。これだけ人口が増えればひずみがない訳はなく、多くの労働者は不潔なスラムに住むしかありませんでした。

下水はろくに処理されず、糞尿も生活排水もそのままテムズ川に垂れ流され悪臭が漂います。工場からの煤煙で空気も汚く、「霧の都」と言われるのも、煤煙でスモッグが度々発生していたことも理由です。貴族のカントリーライフとは無縁な、『スウィーニー・トッド』のダークなロンドンの方が庶民にとっては日常でした。女性や子どもが低賃金で長時間働かされるのも当たり前で、低賃金で働き、スラムで生きる労働者の平均寿命は20歳前後だったとも言われています。

こんな不潔なロンドンの様子をうかがい知る絵画が、ウィリアム・ホガースの「ジン横丁」(1751年)です。質の悪いジンの酒が下層階級に流行し、大人も子どももジンで心身をむしばんでいる様子を描きました。子ども抱き落としても気づかないジン中毒の母親、首をつる理髪師、路上で棺桶に入れられる死体…など、猥雑なロンドンを凝縮した絵画です。

治安も良いはずはなく、ロンドン警視庁の設立は1829年で、ボウ・ストリート・ランナーズという治安組織に頼っているだけでした。死体を埋葬しても掘り返されて医師や医学生の解剖の検体に使われてしまい、死体が足りないので墓掘り専門の業者までいたという時代で、彼らの存在は死体が蘇るゾンビなどの伝説のモチーフの一つにもなります。

貧民街に流れ着いた人々はその日を暮らすだけで精一杯、不潔な街で健康を害して、名前も知られずに死んでいくことが当たり前。無縁仏同然で共同墓地に葬られても、死体を掘り起こされて解剖されるかのしれない、そんな時代なので、『スウィーニー・トッド』のように人知れず犯罪に巻き込まれても、裏通りに死体が転がっていても誰も気に留めません。この作品のホラーで陰鬱な空気は、当時のロンドンのリアルな暗さを反映してもいます。19世紀末の切り裂きジャック事件もこういったロンドンの闇を象徴していますが、100年以上前から猟奇事件を描くにはうってつけの暗い街でもあったのがロンドンです。

アメリカ大陸では『ハミルトン』の英雄たちが独立戦争を戦う

一方、イギリスは植民地にしていたアメリカと独立戦争を戦い、1776年にアメリカは独立を宣言。イギリス国王ジョージ3世は独立を認めずアメリカ大陸への軍事介入を続けましたが、戦況は打開できず1783年にアメリカの独立を認めました。

アメリカ独立の歴史を描いたミュージカルが、ブロードウェイの人気作『ハミルトン』です。主人公で憲法を起草したアレクサンダー・ハミルトンや初代大統領ジョージ・ワシントンだけでなく、ジョージ3世もこの舞台に登場します。ジョージ3世のミュージカル・ナンバーもあり、彼がアメリカ独立の英雄たちをどんな目線で見ているかも作品の見どころです。

1789年には隣国フランスで革命が勃発し、イギリスはこちらにも介入します。1792年に始まったこのフランス革命戦争は、断続的にナポレオン戦争まで続きます。この時代の英仏関係も『スカーレット・ピンパーネル』『二都物語』のストーリーの下地になっています。18世紀から19世紀にかけて世界一の強国だったイギリスですが、大英帝国の栄華と同じくらいに闇も強烈だったことを思い知らされる『スウィーニー・トッド』です。

光も闇も濃い「スウィーニー・トッド」の時代のロンドン。「ハミルトン」や「スカーレット・ピンパーネル」とも同じ時代と考えるとより興味も増しますね。