5月9日から日生劇場にて幕を開けたミュージカル『この世界の片隅に』。こうの史代さんによる原作漫画を元に、脚本・演出を上田一豪さん、音楽をアンジェラ・アキさんが務めた世界初演ミュージカルです。すず役:昆夏美さん・周作役:海宝直人さん、すず役:大原櫻子さん・周作役:村井良大さん、Wキャスト2バージョンの観劇リポートをお届けします。

「どんな場所もどんな人も居場所がある」

主人公のすずがスケッチする帳面をモチーフにした、紙の手触り感あるセットに現れるすずと、すずの周りを取り巻く人たち。オープニングナンバー「この世界のあちこちに」ではミュージカル『この世界の片隅に』に込められた温かい世界観が広がり、“小さな紙切れ”に描かれる物語への期待を高めます。

1幕は戦争によって2つの大切なものを失った現在のすずと、周作に出会い、嫁ぐくことになった過去とが交差して描かれていきます。マイペースながらも優しさや温かさがあり、どんな人にも分け隔てなく接するすずは、物静かな周作を明るく照らしていきます。また周作も、知らない家に嫁いだすずを気遣い、2人は絆を深めていきます。

苗字が浦野から北條に変わり、住む家が変わり、自分の居場所はどこになったのかと疑問に思うすず。北條家には周作の両親と、亡き夫の実家と離縁した義姉の径子、径子の娘の晴美がおり、すぐに馴染むことはできません。太平洋戦争下という時代設定ながら、すずが悩むのはごく“普通”の家族や人間関係における悩み。だからこそ、すずの等身大の姿に共感しながら観ることが出来る作品です。

©こうの史代/コアミックス・東宝 製作:東宝

昆夏美さん演じるすずは、抜けているところが可愛らしく、とても表情豊かに周作と観客の心を掴みます。心の動きが歌声からも微細に伝わり、まるですず自身になったかのように、感情移入してしまいます。悲しみや悩みを乗り越える芯の強さがあることも感じられるすずです。

海宝直人さん演じる周作は不器用ながらも、すずを深く想い、夫婦として、家族として助け合おうと歩み寄る姿が印象的。これまで何度も共演してきた昆夏美さんとの相性は抜群で、2人の心が近づく様が繊細に見て取れる「醒めない夢」はまさに夢のような美しさ。“キャラメルのような甘い幸せ”が詰まった2人の姿には、温かいシーンながらも涙がじんわりと溢れます。

©こうの史代/コアミックス・東宝 製作:東宝

大原櫻子さん演じるすずは、ゆったりのんびりした雰囲気がとても魅力的。広島の方言も相まって独特な言葉のリズムがあり、彼女の愛らしさに惹かれる周作の気持ちがよく分かります。普段は穏やかな彼女が2幕終盤に向けて大きく感情を動かすと、一気に空気が引き締まるのが分かります。

村井良大さん演じる周作は、すずへの愛おしさが全身から滲み出ており、彼女を想う気持ちが常に伝わります。家族を大きな愛で包み込む懐の大きさが感じられる周作です。

©こうの史代/コアミックス・東宝 製作:東宝

すずがひょんなことから出会う白木リンは、遊郭で働いており、すずとは全く異なる境遇で育ってきた人。自身を悲観せず、飄々と話す彼女の言葉に、すずは新たな気づきを得ていきます。

「誰でも何かが足らんくらいで、この世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」という彼女の一言は、居場所を探すすずの1つの答えになったことでしょう。桜井玲香さんは美しくも逞しいリン、平野綾さんは上品でお姉さん的なリンという印象を受けました。

©こうの史代/コアミックス・東宝 製作:東宝

すずと幼なじみで、すずが初恋の相手だった水原哲は、小野塚勇人さんと小林唯さんのWキャスト。水原は無骨な青年ですが、すずは絵を通して彼と心を通わせます。志願して水兵になり、戦争とは何かを目の当たりにする彼にとって、日常を生きるすずの小さな存在が微かな希望の光だったように思えます。

©こうの史代/コアミックス・東宝 製作:東宝

義姉の径子はこの時代に自由恋愛で結婚した強い意志を持つ女性。彼女にとってすずは当初、相容れない相手でしたが、素直に感情を言動に出す径子だからこそ、すずを支える力も持っています。音月桂さんはすずとの絶妙な距離感を表現しながら、数々の辛い経験に屈しない強さで魅了します。彼女が歌う「自由の色」は、名曲揃いの本作の中でも大きな見どころです。

©こうの史代/コアミックス・東宝 製作:東宝

アンジェラ・アキさんが手がける音楽はポップスのようなキャッチーさと歌詞の温かみがあり、各キャラクターの心情を色鮮やかに描いていきます。脚本・演出の上田一豪さんと共にこだわったという、“ミュージカルである理由”、物語における音楽に与えられた役割が明確で、全体の構成としてもリプライズや転調などミュージカル作品としての音楽の完成度が高い作品に。2度観劇すると作中に潜んだモチーフにより気づくことができ、知れば知るほど沼の深い音楽構成です。

©こうの史代/コアミックス・東宝 製作:東宝

舞台セットはすずの帳面をコンセプトにした傾斜のある八百屋舞台で、中央の盆が回転すると高さが生まれます。軍艦が見える丘にある北條家になったり、橋の上になったりと、そこから景色が広がって見えるセットです。人と人との縁が繋がり交差していく様が、エピソードでも演出でもセットでも、丁寧に描かれていきます。

©こうの史代/コアミックス・東宝 製作:東宝

あなたの居場所はどこですか?そう聞かれたら、多くの人は答えに詰まるかもしれません。私たちは時に、自分の居場所はどこにもないのではないかと孤独を感じたり、自分の力では何もできないと無力さを感じたりします。小さな手で日々を描いていくすずが本作で1つの答えに辿り着いた時、そんな私たちにも明日を生きる活力を与えてくれるはずです。

ミュージカル『この世界の片隅に』は5月9日(木)から30日(木)まで日生劇場で上演後、北海道・岩手・新潟・愛知・長野・茨城・大阪公演を行い、7月27日(土)28日(日)には本作の舞台である広島県呉市の呉信用金庫ホールにて上演が行われます。スケジュールとチケットの詳細は公式HPをご確認ください。

Yurika

昆夏美さん&海宝直人さんペアは互いを理解して居場所を作っていく、大原櫻子さん&村井良大さんペアは周作の大きな愛の中に居場所があったことに気づく、という印象がありました。スイカや桜など、日本の美しい四季も感じられる作品です。