2026年3月から上演されているミュージカル『ジキル&ハイド』。2001年の日本初演から愛され続けてきた傑作が、柿澤勇人さん・佐藤隆紀さんのW主演で新演出版として生まれ変わります。本記事では、原作小説『ジキル博士とハイド氏』をもとに、物語の舞台となった19世紀ロンドンの時代背景、そしてジキルとハイドのモデルについて解説します。
原作『ジキル博士とハイド氏』と作者スティーブンソン
善と悪の二面性を描いた古典的名作
原作小説『ジキル博士とハイド氏』は、スコットランド出身の作家であるロバート・L・スティーブンソン(1850-1894)によって書かれた、イギリスを代表する文学のひとつです。
人々から信頼の厚い医師・ジキル博士は、暗い欲望にとらわれ、自ら発明した秘薬によって別の人物へと変身します。しかし、繰り返し変身を続けたジキル博士の身には、やがて恐ろしい破局が待ち構えていました。本作は人間の“善と悪”の二面性を見事に描き、「二重人格」の代名詞ともなった古典的名作です。
作者のスティーブンソンは、スコットランドのエディンバラにて、灯台建設師の父のもとに生まれました。身体が弱かったスティーブンソンは、仕事を辞めて各地を転々としつつ、文筆に親しむようになります。そして少年向け海洋冒険物語『宝島』が大ヒットし、その後も『ジキル博士とハイド氏』をはじめとする多くの名作を生み出しました。
体調不良のために転地を繰り返し、最終的には家族とともにサモア島へ落ち着きました。サモア島でも執筆を続けたその生涯はわずか44年でしたが、島の人々を愛し愛された、豊かな晩年だったといいます。
『ジキル博士とハイド氏』の執筆背景
『ジキル博士とハイド氏』は1885年、スティーブンソンが当時滞在していたイギリス南部のリゾート地ボーンマスにて執筆されました。スティーブンソンは2年後の1887年にこの地を去り、アメリカへ渡って二度と帰国しませんでした。つまり、本作がイギリスでの最後の創作作品となったのです。「霧のロンドン」を描いたこの作品ですが、ロンドンではなくエディンバラを念頭に置いて書かれたという説も存在しています。
スティーブンソンは『ジキル博士とハイド氏』について、自身のエッセイで「ひどい悪夢を見たことが、作中の主な出来事の材料となっています」と明かしていました。具体的には、ジキル博士の窓辺の場面と、ハイド氏が薬液を飲んで変身する場面を夢に見たことが物語を生み出すきっかけとなったとされています。
また、「人格の二重性」というテーマが聖職者たちの心を捉えたからか、イギリス各地の教会では『ジキル博士とハイド氏』が説教の主題に取り上げられることが多くありました。単なる小説という枠を超え、多くの人々に愛された作品となったのです。
ジキルとハイドにはモデルがいた?
実は、ジキル博士とハイド氏には、ふたりのモデルがいたと言われています。
1人目は、エディンバラの石工ギルドの組合長であるウィリアム・ブロディー。スティーブンソンの地元・エディンバラの有名人でした。昼間は家具師として働きながら、夜には顧客の鍵を複製し、泥棒として暗躍していました。なんと18年間にもわたり盗みを繰り返し、1788年についに逮捕され、処刑されました。
そしてもう1人は、外科医で解剖学者のジョン・ハンターでした。「実験医学の父」「近代科学の開祖」と呼ばれるほどの人物でしたが、解剖教室で使用する死体を調達するために墓を荒らしていたと言われています。
ハンターの邸宅には表通りと裏通りにそれぞれ出入口があり、これはジキル博士の邸宅のモデルとなったという説もあります。
光と影のヴィクトリア朝
本作の舞台は、ヴィクトリア朝と呼ばれる19世紀のロンドンです。ヴィクトリア朝とは、ヴィクトリア女王が即位した1837年から逝去した1901年の期間を指し、イギリスが世界の一等国に君臨した黄金時代として知られています。18世紀後半の産業革命に伴う工業化で、それまでの農業中心の社会から工業中心の社会へと変貌したのです。
1851年には都市人口が農村人口を凌駕したほか、鉄道の発達によってロンドンを中心に全国の都市が繋がりました。また、資本主義が拡大し、階級社会が定着した時代でもありました。富裕層であるブルジョワ階級と彼らに雇用される労働者階級が形成され、その格差は激しいものでした。
また、当時のロンドンは「霧の都」と呼ばれていました。この霧の正体は、石炭暖房と工場の煙が混ざり合ったスモッグだったと言われています。工業の発展によって公害が深刻化したロンドンでは、スモッグを追放しようという意識が高まりました。
『ジキル博士とハイド氏』が描かれた19世紀のロンドンは、革新的な技術によって文明が発展した一方、人々の格差や公害など深刻な問題も孕む、二面性の激しい時代でした。
この時代の複雑さが、1人の人間の善と悪を描いた傑作を生み出したのかもしれません。
原作にはいない女性・ルーシーが果たす役割
前章では19世紀のイギリスで格差社会が定着したと述べましたが、ジキル博士はブルジョワ階級にあたります。ここで特筆したいのが、ミュージカル『ジキル&ハイド』に登場する娼婦・ルーシーです。実は原作『ジキル博士とハイド氏』の主要人物はほぼ男性ばかりで、ルーシーというキャラクターは存在しません。
ミュージカル版では、上流階級の社交場から抜け出したジキルがルーシーと出会い、天啓を受けて実験を始める様子が描かれています。ブルジョワ階級のジキルと、娼婦のルーシー。本来なら関わるはずのない異なる階級に属するふたりが出会ったことで、「ハイド」という別の人格が誕生するきっかけになったのです。
階級社会の外側にいる彼女だからこそ、鬱屈した思いを抱えていたジキルの二重性を引き出したのかもしれません。それは悲劇の始まりではありますが、ミュージカル版の優れた改訂点のひとつだと言えるのではないでしょうか。
ミュージカル『ジキル&ハイド』は、2026年3月15日(日)~29日(日)まで、東京国際フォーラム ホールCで上演中です。詳しくは公式ホームページをご覧ください。
参考書籍一覧:『ジキール博士とハイド氏』訳:海保眞夫(岩波少年文庫)
『新訳 ジキル博士とハイド氏』訳:田内志文(角川文庫)
『宝島』作:ロバート・L・スティーブンソン、訳:阿部知二(岩波少年文庫)
『イギリスの歴史を知るための50章』編著:川成洋(明石書店)
作者スティーブンソンが悪夢から生み出したこの物語。 「霧のロンドン」の歴史を知れば知るほど、ジキルとハイドが単なる二重人格の話ではなく、あの時代の矛盾そのものを体現した存在なのだと気づかされます。



















