『美女と野獣』や『アラジン』など、1990年代にヒットしたディズニー映画は「ディズニー・ルネッサンス作品」と呼ばれています。70年代にディズニー社が陥った映画停滞期を音楽で救ったディズニー・ルネッサンスの普及者といえば、アラン・メンケンとハワード・アシュマンです。

ディズニー映画はもちろんミュージカル界には欠かせない作曲家のアランと、音楽だけではなく舞台演出にも精通する作詞家のハワード。2人の共同音楽制作の始まりは、ミュージカル『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』でした。この作品の成功を機に、2人はタッグを組んで活動の場を映画へと移します。ディズニー映画に革新を起こした彼らの功績を辿っていきましょう。

演劇畑出身が生かされた『リトル・マーメイド』

まだ無名だったアラン・メンケンとハワード・アシュマンが初めて音楽を担当したのが、1989年公開の『リトル・マーメイド』です。彼らの楽曲はアカデミー作曲賞と主題歌賞を受賞し、ディズニー・ルネッサンスの幕開けに大きく貢献しました。

アランとハワードがこだわったのは、音楽で作品の世界観を統一させること。前作の『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』も『リトル・マーメイド』と同様にミュージカル映画でしたが、楽曲には複数の作曲家が携わり音楽の統一感がいまいちでした。

そこで2人は、音楽を統一して歌でストーリーを紡ぐことを試みます。作中で例えるなら、魔女のアースラが歌う「哀れな人々」のシーン。アリエルはあの5分ほどの歌の中で、アースラに出会って曲の終わりには人間の足を手に入れます。歌のシーンがなければ物語が成立しないという構成は、演劇畑出身のアランとハワードの経験から確立したのです。

彼らの音楽は、キャラクターづくりにも大きく貢献。アカデミー主題歌賞を獲得した「アンダー・ザ・シー」を歌うセバスチャンは、ハワードのアイデアによってカリプソを歌うジャマイカ出身のカニに設定されました。

『美女と野獣』を見られなかったハワードへ

『リトル・マーメイド』がアカデミー賞を受賞した数日後、ハワードはアランを自宅に招き、自分がHIVに感染していることを告白しました。ハワードは病気と戦いながらも、アランとともに2作品目の『美女と野獣』と、自ら企画した3作品目の『アラジン』の制作を進めることを決断。

死の間際まで映画製作に携わったハワードは、『美女と野獣』の完成を見られないまま、エイズによって40歳という若さで亡くなります。彼の功績をたたえ、スタッフは作品のクレジットロールの最後にハワードへのメッセージを添えました。

「人魚姫に美しい声を、野獣には魂を与えた私たちの友ハワードに、一同は永遠に感謝します」。

『美女と野獣』はアニメーション映画の歴史に衝撃を与える傑作となり、アカデミー作品賞、作曲賞、歌曲賞にノミネート。ミュージカル、実写映画、テーマパークというように、形を変えながらも多くの人に愛され続けています。

さきこ

その後のアラジンでは、ハワードの意思を受け継いでティム・ライスが作詞を担当しました。このときにも、ハワードが遺したアイデアが作品に大きく貢献します。アシュマンを実の兄のように慕っていたアランは、『ノートルダムの鐘』、『ヘラクレス』、『塔の上のラプンツェル』などの作曲を手がけ、今ではディズニー映画にはなくてはならない存在に。「ディズニー映画=ミュージカル」という誰もが思い浮かべるポピュラーなイメージは、アランとハワードがいなければ定着していなかったかもしれません。