2026年5月に上演される新国立劇場のフルオーディション企画第8弾は、サミュエル・ベケットの傑作戯曲『エンドゲーム』。同劇場の演劇芸術監督である小川絵梨子さんが、自身にとって任期最後となるフルオーディション企画で演出を担います。

ベケットが“最も嫌いじゃない作品”と評した不条理演劇

舞台『エンドゲーム』は、20世紀を代表する劇作家・小説家の1人にして、ノーベル文学賞受賞作家であるサミュエル・ベケットの戯曲です。1957年に初演されてから半世紀以上を経てなお、世界中で上演され続けています。タイトルの「エンドゲーム」とは、チェスの終盤戦で駒が少なくなり、逃げ場のない状況を示唆する言葉。そのニュアンスを反映するように終末を予感させる不穏な世界で、閉塞空間に置かれた4人の登場人物が、繰り返される絶望的な日常に抗おうとする様子が描かれます。

ベケットといえば不条理演劇の代名詞ともなっている戯曲『ゴドーを待ちながら』で有名ですが、ベケット自身は『エンドゲーム』を「自分の作品の中で最も嫌いじゃない作品」と評したといわれています。人間を肯定も否定もせず、ただまっすぐと存在そのものを見つめるベケットの視点が普遍性を持つからこそ、いつの時代でも人々の心を惹きつけてやまないのでしょう。

そして2026年5月、東京・新国立劇場の2025/2026シーズンにおけるシリーズ企画「いま、ここに──」の第2弾、またフルオーディション企画第8弾として『エンドゲーム』の物語が立ち上がります。

小川絵梨子芸術監督による最後のフルオーディション企画

本作では、この2025/2026シーズンで新国立劇場の演劇芸術監督を退任する小川絵梨子さんが演出を手掛けます。

小川さんは、2004年に日本人で初めてニューヨーク・アクターズスタジオ大学院演出学科を卒業。これまで翻訳家・演出家として数々の作品に携わり、第41回菊田一夫演劇賞や第21回読売演劇大賞の優秀演出家賞、第48回紀伊國屋個人賞などを受賞しました。近年の主な実績に、2025年のパルコ・プロデュース 2025『ヴォイツェック』の上演台本・演出や舞台『Take Me Out』2025の翻訳、2023年の舞台『ART』の演出などが挙げられます。今後は、新たに誕生した東京建物 ぴあ シアターにて2026年9月より始動するオープニングシリーズのうち、演出を担当する舞台『ロックンロール』が2026年11月・12月に上演予定です。

2018年に新国立劇場の演劇芸術監督に就任すると、演劇を発展させながら新しい創造に挑戦したいという思いで「演劇システムの実験と開拓」を活動方針のひとつに掲げました。

なかでも実験的な取り組みとしてスタートしたのが、フルオーディション企画です。もともとキャスティングに関してなるべく広く公平に、作品に興味を持った人に集まってもらう機会を作りたかったという小川さん。そこで、所属事務所やキャリアに関係なく希望者を募り、全ての配役をオーディションで決定するという日本では珍しい企画を打ち出しました。まず作品ありきで作り手が俳優と出会い、役柄に相応しい人を自ら選び抜くプロセスは、舞台の根幹を支える重要な要素といえます。さらに、フルオーディションを介してより多くの俳優に出演のチャンスが巡ってくれば、まだ見ぬ才能の発掘や表現の深化、ひいては演劇界を盛り上げることにもつながるでしょう。

今回、フルオーディション企画は8作目まで到達した一方で、2期8年間にわたる任期を満了する小川さんにとっては最後の企画参加となります。ここでベケットの『エンドゲーム』を選んだのは、今まさに終わろうとしているかのように見える世界で、「終わらせないためにどう生きるか」を探求する物語だからだといいます。時に不条理を突きつけてくる現実の中で、人間には“それでも終わらせないための力”が残されていると信じて、小川さんが絶望の中から希望を探り当てます。

また、本作の翻訳は、早稲田大学文学学術院教授の岡室美奈子さんが担当。現代演劇論やテレビドラマ論、サミュエル・ベケット論を専門とし、2023年まで早稲田大学演劇博物館の8代館長を務めました。とりわけサミュエル・ベケット研究においては日本を代表する存在で、白水社出版の訳書『新訳ベケット戯曲全集1 ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』にて、本作の新訳に取り組まれています。本作について岡室さんは「これは絶望の劇ではない」と語り、演出の小川さんはその言葉に共感するとともに大きな支えとなっているそうです。単に表面上の意味を訳すのではなく、ベケットの意図を汲み取ろうとして紡がれる台詞にぜひ耳を傾けてみてください。

<あらすじ>
家具のない室内。舞台奥に小さな窓が二つ。カーテンは閉じている。壁際にはバケツが二つ、並んで置いてある。古ぼけたシーツを被って車椅子にかけている盲目のハム。もうひとり、クロヴが不自由な足取りで室内をウロついている。どうやら主従関係のようだ。二人はとりとめのない会話を続け、ハムは常にクロヴに文句を言い、怒鳴り散らし、イライラしている。クロヴはたまに外を覗いたりもするのだが、見えるのは殺伐とした風景。お互い、そんな日常に絶望しうんざりしていた。やがて退屈しのぎにハムが、バケツの中の人間に話しかける。中にいたのは彼の父親らしい。そしてもうひとりは……。

キャストは1,016名から選出された4名

オーディションは2025年3月12日より公募を開始し、4月初旬に書類選考、同月下旬に一次選考、5月上旬から中旬にかけて二次選考・三次選考と時間をかけて進行。1,016名の応募者から、4名のキャストが選ばれました。

車椅子に乗っている盲目の男・ハムを演じるのは、近江谷太朗さんです。演劇集団キャラメルボックスの主力メンバーとして13年間活動し、2002年の退団以降もさまざまな舞台や映画、ドラマに出演しています、直近では2026年4月に映画『Piccola felicità(ピッコラ・フェリチタ)~小さな幸せ~』が公開したばかりで、7月にはプリエールプロデュースの舞台『父よ!』に登場する予定。2027年には映画『波の先へ』の劇場公開が控えています。

ハムに仕える足の不自由な男・クロヴ役は、2015年に俳優デビューして以来、舞台と映像作品で経験を重ねる中山求一郎さん。近年の主な出演作に2024年の映画『碁盤斬り』や2025年のKAAT×城山羊の会による舞台『勝手に唾が出てくる甘さ』、た組の舞台『ドードーが落下する』などがあり、2026年6月には映画『ひとりたび』が公開されます。高圧的に振る舞うハムと、従順に仕えている様子のクロヴは何故一緒にいるのか、一体どんな関係性なのか、大いに気になるところです。

また、劇団テアトル・エコー所属の田中英樹さんが、バケツの中にいるハムの父親・ナッグ役を務めます。田中さんは劇団内外の舞台作品に参加する一方で、2004年からは日本版『セサミストリート』のパペティアも担当するなど、多岐にわたって活動。本作では、語ることで周囲と関わり続けようとするナッグのエネルギーに満ちた生き様に向き合います。

そして、ナッグの伴侶であるネル役には、佐藤直子さん。1988年から2008年まで円演劇研究所に所属し、現在に至るまで俳優活動を続けています。舞台作品では2024年のM&Oplaysプロデュース『帰れない男~慰留と斡旋の攻防~』や2023年のKAAT神奈川芸術劇場プロデュース『蜘蛛巣城』、映画では2024年の『サイレント・ラブ』や『シサム』に出演しました。ナッグと同じくバケツの中にいるネルが何を考え、どうやって3人と関わっていくのか、佐藤さんの繊細な表現にも注目です。

舞台『エンドゲーム』は2026年5月15日(金)・16日(土)のプレビュー公演を経て、20日(水)から31日(日)まで東京の新国立劇場で上演されます。詳細は公式HPをご確認ください。

もこ

今にも終わりを迎えそうな世界に生きながら、決して絶望しているわけではない登場人物たちの姿は、現代の私たちが抱える不安や生きづらさに対する一筋の光となり得るのではないでしょうか。