センセーショナルな情報や極端な表現ばかりがSNSで瞬時に拡散される現代社会。大きな声が“真実”とされてしまう時代に、私たちはどう向き合っていくべきなのでしょうか。演劇作品を通して、社会を映し出してみたいと思います。(『ディア・エヴァン・ハンセン』『るつぼ』『アメリカン・ドリーム』『ウィキッド』物語について触れるため、観劇前にネタバレしたくない方はご注意ください)

承認欲求は誤りか?『ディア・エヴァン・ハンセン』

2026年夏、日本で待望の上演が行われたミュージカル『ディア・エヴァン・ハンセン』。本作は2015年に初演、翌年にブロードウェイで上演され、第71回トニー賞でミュージカル作品賞を含む6つの賞を受賞しています。

その理由の1つは、『ラ・ラ・ランド』『グレイテスト・ショーマン』を手がけた音楽クリエイターのパセック&ポールのゴールデンコンビ(ベンジ・パセックとジャスティン・ポール)による名曲の数々。「Waving Through a Window」「You Will Be Found」などの楽曲は世界中で愛され、日本でも数々のミュージカルコンサートで歌唱されてきました。

名作ミュージカルは名曲なくして生まれない。加えて本作が大きな意味を持ったのは、2015年という早い段階でSNSを描いた作品であるということです。

2000年代に急速なスピードで大衆化していったインターネットでのコミュニケーション。Facebookが2004年、Twitter(現:X)が2006年、Instagramが2010年に誕生したことを思うと、本作がいかにタイムリーな作品であったかが分かります。また非常に興味深いのは、主人公のエヴァン・ハンセンが社交不安障害を抱えた高校生であるということ。他者とのコミュニケーションが描かれることの多い演劇において稀有な主人公であるかつ、オンラインコミュニケーションを描く必然性が生まれています。

作中でエヴァンは、高校という限られたコミュニティ内で語ったスピーチが動画として世界中に拡散され、多くの人々の共感とバズが生まれる様子を目の当たりにします。クラスメイトと上手く交流できず、シングルマザーの母が仕事に追われ、日常的に孤独を感じていたエヴァンにとって、この動画の拡散は運命を変える出来事となりました。

亡くなったクラスメイト・コナーの両親を傷つけないよう、とっさについたところから始まったエヴァンの嘘は、どんどんと大きくなっていきます。次第にエヴァンの罪悪感が薄れていく様に、嫌悪感を抱く観客も多いかもしれません。しかし彼を“SNSのバズに取り憑かれた自己承認欲求の高い若者”として捉えるのは性急に思えます。

彼はコナーを追悼する「コナープロジェクト」を始動させる前、自分に問いかけます。忘れられて良い人なんてこの世界にいない、と。エヴァンがコナーについて語ったエピソード自体は嘘ですが、彼が語った孤独と、“誰かに大切にされる人でありたい”という願いは、真実であった。だからこそ、人々の心を掴んだのでしょう。

その根本には、承認欲求もあったかもしれません。それまでに味わった孤独が深かった分、承認された喜びは大きく、抗いきれないものだったはずです。

エヴァンの孤独が語られる楽曲「Waving Through a Window」では“誰もいない森で木が倒れたら、音はするのだろうか?”という18世紀の哲学者ジョージ・バークリーの問いが引用されています。人間の存在は、他者の認知と強く依存しているということを考えさせられる一節です。

エヴァンの承認欲求を真っ向から否定することはできない。なぜなら、私たち誰もがそのかけらを持っていて、それこそが人間たらしめる理由でもあるからです。

それは「正義」か、「復讐という化け物」か

SNSでは「叩く」ことが気軽に行われ、刺激的な言葉が飛び交います。「炎上」することが当たり前の世界。「炎上覚悟で言います」というキラーフレーズで、わざと炎上を狙いにいく世界。私たちはいつしか「正義」さえあれば、激しい言葉を投げつけること、制裁を加えることに慣れてきてしまったようです。

SNSは閲覧数や滞在時間、インプレッションを稼ぐことによってフォロワーを集め、経済的な利益を得ることができます。中でも怒りのような強い感情や暴露・告発は、大きな反応を得られる。これらが人間の倫理観や正確さ、誠実さを失わせてしまうのです。

ここでアーサー・ミラーの戯曲『るつぼ』を思い出さずにはいられません。本作はマッカーシズム(赤狩り)の渦中にあったアーサー・ミラーが執筆、1953年に初演され、トニー賞 演劇作品賞を受賞しました。

ソ連との対立を背景に、マッカーシー議員の演説によって本格化した赤狩り。『みんなわが子』『セールスマンの死』でアーサー・ミラーとタッグを組んだ演出家・映画監督のエリア・カザンは、非米活動委員会からの審問で共産党との関わりについて尋ねられた時、共産党員であった事実と党活動を告白した上で、関係者9人の名前を挙げました。その中にはアーサー・ミラーの名前も含まれており、この告発が2人の関係性を決裂させました。

一方、アーサー・ミラーは委員会からの審問に対して他人の名前を挙げる裏切りを拒み続けます。『るつぼ』はこういった彼の“良心”が強く意識して描かれた作品です。

『るつぼ』が描くのは、17世紀にマサチューセッツ州セイラムで実際に起こった魔女裁判。主人公で農夫のプロクターが一夜の関係を持ってしまった少女アビゲイルは、彼の妻を「魔女」として告発し、村中を魔女狩りの嵐に巻き込んでいきます。セイラムでは実際に約200名が告発され、19人が処刑されました。

告発はなぜ真実として扱われたのか。戯曲を読み解いていくと、そこにはアビゲイルのプロクターに対する個人的な感情だけでなく、土地の所有権を巡る争い、黒人への偏見、個人的な人間関係から生まれる恨みや妬み、怒り、恐れ、不安が混ざり合っていることが見えてきます。

プロクターはアビゲイルたちの告発を信じる村人たちにこう訴えかけます。

「告訴する側は、いつも神聖なのか?奴らは生まれたばかりで、神の御指のように清らかとでもいうのか?セイラムをわがもの顔でのし歩いているのは何か、教えてやろう−−復讐という化け物だ」。(アーサー・ミラー『るつぼ』倉橋健 訳 早川書房、2008年)

アビゲイルはプロクターの妻エリザベスが「魔女」であることを告発するため、突如倒れ、お腹に針が刺さっていることを見せます。それはエリザベスが悪魔を遣わせて刺したものであり、その証拠に彼女が持つ人形には針が刺さっていると主張するのです。

もちろん、アビゲイルの自作自演であり、冷静に見れば馬鹿馬鹿しい嘘です。しかし実際にエリザベスの家にあった人形に針が刺さっていたことで、人々は悪魔の証拠であると信じ、連行されます。

歴史を重ね、賢くなった人間はそんなことは信じない?本当にそうでしょうか。アビゲイルが「倒れた」こと、「人形に針が刺さっていたこと」は事実だった。断片的な「事実」から全体を真実だと信じてしまう姿はまさにSNS社会に重なります。むしろ今は、短い文字数によって生まれた誤読や、AIが作り上げた巧妙な嘘に支配されている社会とも言えます。

ちなみにPARCO劇場で8月に開幕した三谷幸喜さん作・演出の新作舞台『アメリカン・ドリーム』も赤狩りについて描かれています。浅野和之さんが演じる「映画監督」役はエリア・カザンをモデルに、小日向文世さん演じる「脚本家」はダルトン・トランボをモデルとしており、赤狩りに対して「現代の魔女狩りである」と抗議するシーンも描かれています。本作が今、上演される意味を考えずにはいられません。

ポピュラーを優先する魔女、重力に逆らう魔女

2003年から世界中で上演され続け、近年では映画化も話題となった『ウィキッド』はまさに2人の“魔女”を描いた作品です。

大衆が恐れ、悪のレッテルを貼った魔女エルファバの真の姿とは−。魔法の世界を描いたファンタジックな作品ながら、人種(肌の色)や社会的弱者への偏見をかなり直接的に風刺した作品でもあります。

『ウィキッド』では“良い魔女”グリンダと“悪い魔女”エルファバ、対照的な2人の魔女の絆を軸に描かれます。2人の代表的な楽曲も非常に対照的です。グリンダが歌う「Popular」では、何よりも大事なのは“人気者であること”だと語られます。そのために彼女は外見を飾ることを重視します。

結果、彼女の“良い”イメージはオズの魔法使いに政治利用され、学友であるエルファバとの対立関係を強いられます。人々を喜ばせるため、安心させるために仕方のないこと。エルファバを人々の共通の敵として創り上げることに、悪びれないオズの姿が印象的です。

一方で、エルファバは“悪い魔女”というレッテルを受け入れながらも、オズの魔法使いという権力者に屈せず、マイノリティとして戦い続けることを選びます。

彼女が歌う楽曲は「Defying Gravity」。直訳すれば“重力に逆らう”こと。彼女が戦う相手は、オズの魔法使い1人ではありません。大衆の不安、恐怖、興奮。まさに『るつぼ』で描かれたセイラムの村のように、そして現代のSNSのように、多様な意思が渦巻いた世界です。

地球上で決して逃れることのできない重力。年齢と共に、影響を強く受けていく重力。エルファバが対峙しなければならないものの強大さを感じます。

プロクターが最後に守ったもの

ここで特筆しておきたいのは、演劇はフィクションであるということです。社会を映す「鏡」ではありますが、「そのもの」ではありません。フィクションだからこそ、私たちは心理的安全性を感じて、そこに向き合うことができます。フィクションだからこそ、自分とは異なる立場の人間に感情移入をし、俯瞰して理解することができます。

そして時に、自分とはかけ離れた登場人物に共感し、自分という人間の新たな一面に気づくことがあります。鏡を見た時、初めて気が付く自分の表情があるように。

さて、『るつぼ』ではプロクター自身も疑惑をかけられ、処刑を免れるために“悪魔に会った”と嘘の告白をします。彼はどんな汚名を着せられようとも、家族と共に“生きる”ことを優先するのです。しかし告白書に署名し、それが町の人々への見せしめにされると知った時、彼は憤りと共に強い拒否感を示します。

「もう告白しましたよ!公表しなければ、懺悔ではないんですか?」「利用するのはやめてくれ!利用するのは、救済の一部ではない!」「名前なしに、どうして生きてゆける?魂は渡した、名前は残してくれ!」(『るつぼ』)

プロクターが命に代えても最期に守ると決意した「名前」。魂は売っても、残したかった「名前」。それは人間らしさそのものであり、アイデンティティそのものとも言えます。

匿名という安全圏から、言葉の刃を投げつけることが出来る“言ったもの勝ち”の現代。私たちの「名前」は、どこに行ってしまったのでしょうか。

<【特集】演劇が映す社会 とは>
「Audience」は、演劇が社会に“必要不可欠”であるという信念を持ち、1つ1つの演劇作品に深く長く向き合うことを目指す演劇メディアです。本特集は、「演劇は時代を映す鏡」というシェイクスピアの言葉を元に、演劇作品から現代社会の様々なテーマを読み解きます。

「劇というものは、いわば、自然に向って鏡をかかげ、善は善なるままに、悪は悪なるままに、その真の姿を抉りだし、時代の様相を浮びあがらせる」(ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』福田恆存 訳 新潮文庫、2016年)

<参考文献>
アーサー・ミラー『るつぼ』倉橋健 訳(早川書房、2008年)
有泉学宙『アーサー・ミラー 人と文学 (世界の作家)』(勉誠出版、2005年)
巽孝之『ニュー・アメリカニズム ―米文学思想史の物語学― 増補決定版』(青土社、2019年)
山口真一『ソーシャルメディア解体全書:フェイクニュース・ネット炎上・情報の偏り』(勁草書房、2022年)
山本龍彦『アテンション・エコノミーのジレンマ 〈関心〉を奪い合う世界に未来はあるか』(KADOKAWA、2024年)