2024年から使用される新1万円札の顔は、渋沢栄一。渋沢栄一は「日本の資本主義の父」と呼ばれ、数多の企業の設立と日本のインフラ整備に携わった偉大な人物。実は、日本初の西洋式劇場である帝国劇場にも深く関わっています。歴史上の人物の中で今最も注目を浴びている渋沢栄一と、日本の演劇界に必要不可欠な帝国劇場の関係性を探ってみました。
パリ・オペラ座での劇場体験を、日本へ
日本の近代社会が西洋の要素を取り入れて発展した背景には、渋沢栄一が20代の頃にヨーロッパを視察した経験が影響を与えています。徳川氏の支系である一橋家に仕えていた渋沢は、徳川慶喜の異母弟である徳川昭武とともにフランスへ留学しました。パリのオペラ座を訪れた際、きらびやかな劇場に胸を撃たれたそう。
渋沢は芸術の都パリで、経済力と同等に文化・芸術も国力を上げる指標であると痛感。日本の近代化にも劇場が必要であると考え、帰国して早々に国内の財界人に大規模な劇場の建設を呼びかけます。そうして誕生したのが、1911年に東京の日比谷と丸の内の境に建てられた帝国劇場でした。
帝劇最初の演目は、西洋風歌舞伎
帝国劇場といえば今は海外のミュージカルや演劇を上演していますが、当初の劇場のコンセプトは、「歌舞伎が上演できる西洋劇場」でした。なぜなら当時の日本では、西洋の文化は財界人のぜいたくというイメージがあり、一般庶民には手の届かないものだと認知されていたから。
いくら大規模な劇場を建てたといっても、多くの人々が劇場に足を運ばなくては意味がありません。渋沢が描いていた近代社会は、フランスのように財界人と庶民の隔てがなくすべての人が芸術に触れられる豊かさが理想でした。そこで帝国劇場では日本人が西洋文化に触れやすいように、庶民が親しみを感じやすい歌舞伎を西洋風にアレンジして興行したのです。
その後、長い歴史を重ねてきた帝国劇場は、2021年に開業110周年を迎えました。『レ・ミゼラブル』や『エリザベート』のように、今では海外の歴史を舞台にしたミュージカルが数多く上演されているのは、感慨深いものがあります。
俳優の育成にも貢献し、演劇界にも尽力
渋沢栄一は劇場の建設というハード面の支援だけではなく、付属の技芸学校の支援をして演劇人の育成にも取り組みました。1909年から1923年まで設立されていた帝国劇場付属技芸学校では、渋沢は総長として就任しています。
従来の日本では、商人と、女性、そして俳優は社会的地位の低い存在でした。しかしそれを課題に感じていた渋沢自身は、実業家として社会的地位の獲得に成功。日本の芸術に貢献するのは女優たちであると考え、技芸学校では女優を養成、演劇界で活躍する多くの女性を輩出しました。渋沢が帝国劇場を建設し、技芸学校を支援したことで、日本の演劇界は大きく発展していったのです。
渋沢栄一の功績は数多くありますが、日本の演劇文化の発展には欠かせない人物であったことも忘れてはいけません。渋沢の思惑どおり帝国劇場は庶民の人気観光スポットとなり、銀座の三越で買い物した後に観劇に行くという意味の「今日は三越、明日は帝劇」が当時の流行語になりました。帝国劇場は、今でも多くの人々に愛され、演劇ファンが「推しの劇場」として憧れる劇場です。