三谷幸喜さんは、日本で知らない人はほぼいないほどの国民的脚本家。テレビドラマの脚本を書き、舞台の作・演出もして、映画のメガホンも取り、毎週土曜の夜になれば情報番組で司会も務めています。でも、少し気取ってゴーギャンの名画風に≪三谷幸喜はどこから来たのか、何者か≫と問われたら、答えるのは難しいのではないでしょうか。その源流の一つをたどれば、三谷さんが21歳だった1983年に旗揚げして、33歳を迎えた94年に活動休止するまで率いた劇団「東京サンシャインボーイズ」にさかのぼります。解散公演前に「30年の充電期間に入る」と告知した通り、2025年2月9日から東京・渋谷のPARCO劇場などで復活公演『蒙古が襲来』を上演します。劇団の軌跡を振り返りながら、稀代の人気脚本家に迫ってみたいと思います。

脚本・演出の原点はひとり人形遊び

三谷さんは1961年生まれ。一人っ子でテレビっ子。シットコム(シチュエーション・コメディの略、特定の状況設定で巻き起こるドラマ。多くは1話完結で観客の笑い声入り)の名作『奥様は魔女』をはじめ、『スパイ大作戦』や『刑事コロンボ』、アガサ・クリスティのミステリーなどの海外ドラマやNHK大河ドラマ、チャップリンなどの洋画を見て育ちました。ドラマや映画の好きな場面や、自分で考えた話を、何百体もの兵隊人形などを使って再現をした「ひとり遊び」が、脚本や演出の原点になっているそうです。

「子供の頃に観たものを自分で再生産するというモチベーションだけでやってきた」と、『三谷幸喜 創作を語る』(以下、『創作』)の中で語っています。

創作は、いつから始めたのでしょうか。自著『NOW and THEN』(以下『NOW』)によると、小学校4年生のとき、クラスのクリスマス会で発表した『雪男現わる』でした。初めての作品には、その作家のすべてが宿るとよくいわれます。三谷さんの場合もご多分に漏れず、「一幕劇・コメディ・群集劇」で、三谷戯曲の特色がすでに出ています。

中学1年のクラスのお楽しみ会では、『そして誰もいなくなりかけた』を発表しました。クリスティの傑作『そして誰もいなくなった』のパロディー。野村萬斎さん主演、クリスティ原作、三谷さん脚本のドラマシリーズのファンにとっては、思わずニヤリとするエピソードです。

高校時代は写真部に所属、8ミリカメラと編集機材で自主映画の製作に熱中。映画を撮っているうちにストーリーとせりふが好きだと自覚した三谷青年は、1980年春、日本大学芸術学部、いわゆる「日芸」の演劇学科戯曲コース(当時)に進学します。ちょうどその前後に、西武劇場(現・PARCO劇場)で、ブロードウェイを代表する米劇作家ニール・サイモン(1927~2018)の傑作コメディ『おかしな二人』(演出:福田陽一郎さん、出演:杉浦直樹さん、石立鉄男さん他)を観て、舞台に魅了されました。

「はじめて舞台が面白く感じ、自分でもやってみたいと思いました。あの日、あの作品を観ていなかったら、いま僕はここにいなかったと思います」。2023年に50周年を迎えたPARCO劇場に寄せた祝辞の中で、三谷さんはそうつづっています。

自分が観て楽しいものをやりたいと劇団旗揚げ

芝居をやりたいと日芸に入学した三谷青年を待っていたのは、演劇史などの勉強でした。戯曲研究のゼミで戯曲は書くものの、学内で発表の機会には恵まれず。そこで、先輩のアングラ系の劇団の手伝いをすることに。しかし、どうも方向性が合わず、辞めたそうです。その後も知り合いの劇団に参加。当時は劇作以外にも俳優として出演もしていました。みんなで集まって稽古をして芝居を作る醍醐味を味わい、自分の劇団を旗揚げすることにしました。

「面白いと思える芝居がなかったので、自分が観て楽しいものをやりたい、というので始めた」と、当時を振り返っています(『NOW』)。大学在学中の1983年に劇団「東京サンシャインボーイズ」を結成。劇団名の由来は、前述したサイモンの傑作コメディ『サンシャイン・ボーイズ』から。劇団の仲間たちは、高校や大学の同級生ら。旗揚げ公演では、『6ペンスの唄』を同年3月19日~21日に池袋とまとハウスで上演しました。ピアノの生演奏の入ったミュージカル風のお話でした。

それから同じミュージカル風の作品を3本上演。1985年3月には、ビル上階の外に締め出された人たちを描いたシットコム『48センチの喜劇(コメディ)』を出します。同年9月公演の後、劇団を一時解散しましたが、半年後には『ビリケン波止場のおさらばショップ』で復活。宇宙人が登場するファンタジー『眠りラクダのはじける音』(87年初演)、三谷さん自身の母親のエピソードを下敷きにしたホームドラマ『青池さんちの犯罪』(88年初演)など、いろいろな路線に挑戦。紆余曲折を乗り越えて公演を重ねていきました。

ここで1980年代の演劇シーンを振り返っておきましょう。バブル経済に踊る中、小劇場ブームが起こり、若き才能の率いる劇団がひしめいていました。三谷さんより6歳上には、渡辺えり子(現・えり)さん率いる「劇団3○○(さんじゅうまる)」と野田秀樹さんの「夢の遊眠社」、5歳上の故・如月小春さんの劇団「NOISE」、3歳上の鴻上尚史さんの「第三舞台」、1歳上のいのうえひでのりさんの「劇団☆新感線」、1歳下には平田オリザさんの劇団「青年団」などがありました。「小劇場第3世代」と呼ばれたその多くは学生演劇から出発し、政治の季節に花開いた「アングラ演劇」とは一線を画すステージで若者たちの人気を集めていました。

その中で「昔のハリウッド映画のようなオシャレなコメディ」(『創作』)を志向する「東京サンシャインボーイズ」は、当時の演劇界では異質の存在。どう位置づければいいのか、戸惑った演劇関係者もいたのではないかと想像します。「僕の同世代の劇団は世間から認められてるのに、僕の『サンシャイン…』だけ誰にも相手にされないし、劇評すらどこにも載らない」(『創作』)という我慢の時期が続くのです。

一時解散の背景には、演劇活動と並行していた放送作家の仕事が忙しくなった事情もありました。実は、「東京サンシャインボーイズ」結成前から、三谷さんはクイズ番組『アイ・アイゲーム』の出題を考える仕事を手始めに、放送作家や構成作家として活躍していたからです。『お笑いマンガ道場』や『欽ドン! 良い子悪い子普通の子』、に、お笑いコンビ・コント山口君と竹田君のコント…。放送の厳しい現場で笑いの感覚を磨いていきました。ギャラは劇団の活動資金につぎ込んでいたそうです。

1988年から始まったテレビドラマ『やっぱり猫が好き』の脚本に起用されたことをきっかけに、転機が訪れます。大好きなシットコムに似たドラマで本領を発揮、次第に注目を集めるようになりました。一方、「東京サンシャインボーイズ」にも追い風が吹いていました。87年頃までには、2025年の復活公演にも出演する相島一之さんや梶原善さん、西村まさ彦(当時は雅彦)さんも加入。メンバーが入れ替わり、“シン・東京サンシャインボーイズ劇団”としての体制が整い、89年7月の公演『天国から北へ3キロ』で観客動員数が初めて1000人を超え、活動も軌道に乗っていたところでした。いい流れに乗って、飛躍の1990年を迎えます。

飛躍の1990年、シアタートップスとの出会い

1990年2月の公演『東京の冬』でそれまでのファンタジー路線から大きく転換、日常の暮らしを描きました。同年4月に、幕末に実在した写真家を主人公にした時代劇『彦馬がゆく』を初演。そして、出世作となる『12人の優しい日本人』が7月にいよいよ登場します。

この作品は、三谷さんが少年時代に観て心打たれたヘンリー・フォンダ主演の米映画『十二人の怒れる男』(1957年)へのオマージュを込めた法廷劇。もし、日本に陪審員制度があったらという設定で、ある殺人事件を巡って12人の陪審員が討議していくストーリー。のちに三谷演劇の3大要素となる「コメディ・密室もの・群集劇」が詰まった劇団初の一幕ものは、大評判を取りました。「この芝居をやりたくて今までやってきた、と言ってもいいくらい」(『NOW』)と三谷さんがのちに語るほど、初めて手応えを感じた作品でした。

翌91年3月に『12人の優しい日本人』を再演した劇場こそ、劇団のホームベースともなる東京・新宿の小劇場「THEATER/TOPS(シアタートップス)」です。目利きの劇場支配人が、劇団を選んで演目を決めるユニークな小劇場で、ここから多くの若手劇団が羽ばたいていきました。「東京サンシャインボーイズ」もその一つでした。

1991年6月に、劇団最高作との呼び声が高い『ショウ・マスト・ゴー・オン』を、東京・下北沢の本多劇場で初演。舞台監督らがあまたの無理難題を乗り越えて、芝居を続けようとする舞台裏を描いたコメディで、評価を不動のものとしました。続いて『なにもそこまで』(92年初演)、『もはやこれまで』(92年初演)、『ラヂオの時間』(93年)などをシアタートップスで上演。「チケットの取れない劇団」として人気を集めるようになりました。渋谷のPARCO SPACE PART3や、シアタートップスのすぐ近くにある紀伊國屋ホールにも進出しますが、1994年9月の解散公演『東京サンシャインボーイズの「罠」』は、快進撃を支えてくれたシアタートップスで3ヶ月間上演しました。このホームベースでは、91年から94まで計7作品を上演しました。

2009年にシアタートップスがいったん閉場した際、常連だった演劇人や劇団がそろい踏みした公演『さよならシアタートップス 最後の文化祭』が企画されました。東京サンシャインボーイズも15年ぶりに再結集して、書き下ろしの新作『returns』を上演しました。

当時、私も何とかして観たいと遠方から駆けつけましたが、涙をのみました。思い出代わりに買い求めたパンフレットには、「…少しおしゃれで、グレードアップした劇場で都会的な芝居をやりたかった。僕たちの転機は、トップスとの出会いも大きな要因でした」という三谷さんのコメントが掲載されています。

あの時、私が個人的に感じたのは、三谷さんと東京サンシャインボーイズは、文句なしに楽しませてくれる―そんな期待を抱かせてくれる存在だということです。映像と舞台という両方の世界を行き来する三谷さんは、唯一無二であるがゆえに孤高のエンターテイナーなのだと思います。

東京サンシャインボーイズ再結成の夢を垣間見たのは、コロナ禍の真っ只中の2020年5月にありました。『12人の優しい日本人』に出演した経験を持つ俳優有志らが、リモートで同作の朗読劇を配信してくれたからです。どこにも行けない、誰にも会えない日々の中で、どれだけワクワクさせてくれたことでしょう。ガン見したパソコンの画面越しに、熟成されたウイスキーのような深い味わいを、感じました。2025年の復活公演では、どんな姿を見せてくれるのでしょうか。

復活公演『蒙古が襲来』は、2025年2月9日から東京・渋谷のPARCO劇場などで上演。スケジュールの詳細は公式HPをご確認ください。

関連記事:東京サンシャインボーイズ、待望の復活!三谷幸喜による書き下ろし新作舞台『蒙古が襲来』製作発表会見リポート

【参考文献】
『NOW and THEN  三谷幸喜  三谷幸喜自身による全作品解説+51の質問』三谷幸喜・著 角川書店 1997年
『三谷幸喜 創作を語る』 三谷幸喜・松野大介・著 講談社 2013年
『三谷幸喜のありふれた生活』 三谷幸喜・著 朝日新聞社 2002年
『別冊宝島 936号 面白さのツボ! 三谷幸喜の全仕事』 宝島社 2004年
『THEATER TOPS 1985-2009 さよならシアタートップス 最後の文化祭』三谷幸喜 カクスコ他 ・著 2009年

鳩羽風子

復活公演ではチケット争奪戦に勝って、2009年の無念を晴らしたいです。