2026年3月から、ミュージカル『メリー・ポピンズ』が東京・大阪で上演されています。傘をさして空から舞い降りる魔法使いの“ナニー”、メリー・ポピンズの物語は、多くの人にとってディズニー映画のイメージが強いかもしれません。この作品が描く1910年代のロンドンには、当時ならではの社会背景が息づいています。

なぜバンクス家にはナニーが必要だったのか。そもそもナニーとは、どんな存在だったのか。作品をより深く楽しむために、『メリー・ポピンズ』の時代背景を紐解いていきます。

小説からミュージカルへ。『メリー・ポピンズ』のあゆみ

ミュージカル『メリー・ポピンズ』は、1934年に出版されたイギリスの児童文学『風に乗ってきたメアリー・ポピンズ』を原作としています。この本を書いたのは、P・L・トラヴァースというオーストラリア出身の作家で、20歳を過ぎてからイギリスで暮らすようになったという経緯を持つ女性です。

舞台は1910年代のロンドン。チェリー・ツリー・レーンに住むバンクス一家のもとへ、東風とともにやってきた不思議なナニー、メリー・ポピンズ。彼女は常人にはありえない能力を持ち、日常世界の中で次々と不思議なことを起こしていきます。

『風に乗ってきたメアリー・ポピンズ』が出版された当時、イギリスは第一次世界大戦を終えたあとでした。その後に控える第二次世界大戦の予感に怯えながら、人々は「古き良きイギリス」を懐かしんでいたと言われています。

1964年には、ウォルト・ディズニーによって『メリー・ポピンズ』として映画化され、実写とアニメーションを融合させた独自の世界観によって大ヒットしました。また、2018年には続編として映画『メリー・ポピンズ リターンズ』が公開されました。

原作小説とディズニー映画を経て新たに制作されたのが、ミュージカル版『メリー・ポピンズ』です。『レ・ミゼラブル』や『ミス・サイゴン』のキャメロン・マッキントッシュ氏とディズニーがタッグを組み、傑作ファンタジーミュージカルとして蘇りました。

ナニーとは?メリー・ポピンズはどんな仕事をしていた?

この作品の時代背景を解説する上で外せないのが、メリー・ポピンズの“ナニー”という職業です。

ナニーとは、元々ナースメイド、またはナーサリーメイドと呼ばれる仕事のことです。この仕事がナニーという名称として定着したのは1785年頃のことで、当時は上流階級の家庭で子どもの面倒を見る女性の使用人(乳母・教育係)のことを指していました。

ミュージカル『メリー・ポピンズ』の舞台は、そこから150年近く経った1910年代のイギリスです。18世紀後半にイギリスで起こった産業革命の影響から、ロンドンでは人口が急激に増加しました。

産業革命によって、資本家と労働者、そして政治に関わる上流階級など、階級社会が定着していきます。人口増加にともない、子どもの数も増えたことから、中流階級以上の裕福な家庭でナニーの需要が広がりました。

1892年にはナニーを養成する初の教育施設「ノーランドインスティテュート(後のノーランドカレッジ)」が設立されるなど、職業としてのナニーが認知され、普及した時代でした。

『メリー・ポピンズ』では、当時の裕福な家庭では一般的だったナニーという存在におとぎ話の要素がプラスされ、日常の延長線上であるファンタジーが完成しました。

なぜ、家庭にナニーが必要だったのか?

現代の価値観で考えると、両親をはじめ、血縁関係者などの家族が子どもの面倒を見る、というイメージが強いかも知れません。しかし、当時の中流階級以上の人々は、親が子どもの面倒を見るということはほとんどありませんでした。この背景には、産業革命によって新たに富を得た資産家や商人などの新興中流階級の台頭が関係しています。

彼らは上流階級の生活様式にならい、“社交”の場を重要視しました。ここでいう社交とは、単に娯楽という意味ではありません。その家のステータスを示すため、階級社会のなかで自らの地位を維持・向上させるための仕事だったのです。ミュージカル『メリー・ポピンズ』劇中にもメリーがバンクス家の母ウィニフレッドに「上流階級の家庭では…」と説くシーンがあります。

当時のジェンダー観として「男性が外で働き収入を得て、女性は家庭を支える」という考え方がありました。女性は家庭を守る「家庭の天使」であることを強要されていました。

このような女性たちは夫の外出への同伴だけでなく、パーティーやサロンの運営など、家事や育児以外の仕事がとても多かったのです。

そのような中で、家事や育児になかなか手が回らない母親たちは、家事使用人を雇うのと同じように、子どもたちの身の周りの世話をナニーに任せるようになりました。当時の子どもたちにとって、ナニーは両親以上に身近な存在だったと考えられます。

このあたりの状況を知ってからミュージカルを見ると、メリー・ポピンズがバンクス家にとっていかに重要な存在だったのかを理解しやすいかもしれませんね。

参考書籍:『洋書天国へようこそ 深読みモダンクラシックス』著・宮脇 孝雄(アルク出版)

糸崎 舞

メリー・ポピンズはさみしい思いをしている子どもたちだけではなく、忙しさに追われる大人たちにとっても救世主だったんですね。子育て中の身として、切実にそう感じました。