スコットランド女王メアリー・スチュアートと、イングランド女王エリザベス1世。生涯一度も会うことはなかったものの、互いを意識し続けた2人の女性です。そんなメアリーとエリザベスを描いた『メアリー・スチュアート』が、2026年4月8日(水)から5月1日(金)まで東京・PARCO劇場で上演中です。この記事では、本作の主人公であるメアリー・スチュアートの波乱の生涯と、彼女を取り巻く時代背景を解説します。隣国イングランドを治めたエリザベス1世との複雑な関係にも触れながら、その数奇な運命を紐解いていきましょう。
傑作悲劇『メアリー・スチュアート』
1700年代に活躍したドイツの作家、思想家であるフリードリヒ・シラー。彼が書いた戯曲『メアリー・スチュアート』は、16世紀のスコットランドに実在した女王メアリーの“最後の3日間”を描いた傑作悲劇です。
カトリック対プロテスタントという宗教的対立を描いたことで、当時は大きな波紋を呼びました。
この古典的名作を、イギリスの演出家ロバート・アイクが大胆かつ衝撃的に翻案し、2016年に初演された『メアリー・スチュアート』。今回上演される日本版では、メアリー・スチュアートを宮沢りえさん、エリザベス1世を若村麻由美さんが演じます。
正反対の運命を生きる2人の女王と、彼女らを取り巻く人々のドラマが描かれます。メアリー・スチュアートとは、一体どんな人物だったのでしょうか。
生後6日で女王に。栄光と没落、そして亡命
フランス宮廷での生活と、突然の帰国
メアリー・スチュアートは、父であるヘンリー7世の戦死により、生後6日でスコットランドの女王となった人物です。わずか6歳で渡仏し、フランス皇太子の花嫁候補として宮廷文化を学びました。
やがて15歳でフランス皇太子妃となったメアリー。翌年には夫であるフランソワ2世が即位し、フランス王妃としての人生が始まりました。
しかし、そのわずか1年後にフランソワ2世が死去。王との間に子どもがいなかったメアリーは、スコットランドへ戻ることになったのです。
ミニ・フランス宮廷と3度の結婚
スコットランドへ帰国したメアリーは、フランス語の堪能な者たちを集めて「ミニ・フランス宮廷」を作り、楽しんでいました。当時のスコットランドは非常に貧しい国でしたが、メアリーにとってはフランス宮廷の思い出が忘れられないものだったのでしょう。
その後、父ヘンリー7世の血を引くダーンリー卿と2度目の結婚をしたメアリーは、男の子を出産しました。しかし、ダーンリー卿は何者かに爆殺され、メアリーはその死に関わっていたとされるボスウェル伯と3度目の結婚をしたのでした。
国民からの反発と、イングランドへの亡命
メアリーの3度にわたる結婚は、スコットランド国民に大きな反感を抱かせました。そしてとうとう、退位を迫られるほどに追い込まれたのです。
そこでメアリーが助けを求めたのが、エリザベス1世の治めるイングランドでした。エリザベスから見ればメアリーは従兄弟(いとこ)の娘にあたり、メアリーから見ればエリザベスは父の従姉妹(いとこ)にあたります。手紙のやりとりでは互いに「姉上様」「我が妹」と呼び合う仲だったと言われています。
息子・ジェームズ王子をスコットランド王に即位させたメアリーは、そんなエリザベスが治めるイングランドへと亡命することを決めました。
女王エリザベス1世の懸念
カトリックとプロテスタントの緊張関係
しかし、ここで非常に複雑な問題が生まれました。それは、当時のイングランドの宗教事情に大きく関係したものでした。
エリザベスは、異母姉であり前女王のメアリー1世が引き起こした宗教的な混乱を鎮めるために必死になっていました。メアリー1世は熱心なカトリック教徒で、プロテスタントの弾圧を命じ、多くの信者や聖職者たちを処刑してしまったのです。
その後女王の座を引き継いだエリザベスは、イングランド国教会の礼拝や祈祷を整備することで、プロテスタント信者たちを保護し、国の安定化を進めました。しかし、イングランドの助けを求めてやってきたメアリーは、カトリック信者だったのです。
王位継承権という不安の種
さらにエリザベスには、もう一つの懸念がありました。メアリーが自分のことを「イギリスの支配者」だと公言していたことです。
メアリーにとって、自分の体に流れる「王の血」は、何よりも誇るべきものだったのです。この発言は、結婚せず後継ぎのいないエリザベスにとっては脅威となりました。
女王に対する反勢力が、いつメアリーを担ぎあげようとするか。エリザベスは、メアリーの存在に不安を感じたのです。
そこで苦肉の策として、メアリーをロンドンから離れた小城へ住まわせることにしました。厳重な警護が敷かれたメアリーの幽閉生活は、その後20年近く続くことになりました。
2人の女王の複雑な関係性
エリザベスの出自と反勢力
エリザベスの出自は、王族にしては少し複雑なものでした。父ヘンリー8世と王妃アン・ブーリンとの間に生まれたエリザベスでしたが、アン・ブーリンは夫に対する反逆罪で処刑されてしまいました。
そのためエリザベスには、国王の娘でありながら庶子へと格下げされていた時期があったのです。当時のエリザベスの人生や暮らしについては、ミュージカル『レイディ・ベス』で丁寧に描かれています。
再びプリンセスの称号を取り戻し、その後女王として即位したエリザベス。政界には、一時的にでも庶子であった彼女を女王とは認めない一派が存在していました。そしてエリザベスを王位から引きずり下ろすため、さまざまな陰謀をめぐらせていました。その危険を感じていたエリザベスは、王位継承権を持つメアリーに対し、強い対抗心と危機感を持っていたといいます。
どちらが美人?エリザベスとメアリーの因縁
1564年にスコットランドの大使がイングランドを表敬訪問した際、こんなエピソードが残っています。当時31歳だったエリザベスが、大使に「わたくしとあなたの女王(メアリー)の、どちらが美人だと思います?」と尋ねたのです。
大使が「お二方とも大変お美しい」と返すと、エリザベスは尚も食い下がり、「ではどちらが背が高いか」と尋ねました。当時は、背の高さも美人の条件とされていたからです。
困り果てた大使は、正直にメアリーの方が背が高いと答えました。するとエリザベスは「では高すぎるわけですね。わたくしがちょうど良い身長ですから」と言い放ったそうです。
エリザベスとメアリーは、手紙のやり取りはしていたものの、生涯に一度も対面することはありませんでした。しかし、互いの人生の中で、常に相手を意識していたことは史実からも伝わってきます。
“人生の最期”を見事に演出したメアリー・スチュアート
メアリーの処刑に悩むエリザベス
メアリーはその生涯の中で、エリザベス暗殺に関するさまざまな陰謀に加担しました。その度に、エリザベスはメアリーを処刑するか悩み続けていました。亡命中であり、息子に王座を譲ったとはいえ、メアリーはスコットランドの君主だったからです。
当時、君主とは神の代理人であると考えられていました。神の代理人を、まるで臣下と同じように処刑してしまえば、国民たちに「君主を裁くことができる」と知らしめてしまうのではないか。それはいずれ、女王である自分の首を絞めることになるのではないか、と。
しかし1586年、ついにエリザベスはメアリーの処刑を決意しました。エリザベスに対する何度目かの陰謀が暴かれ、そこに関わるメアリーの手紙が発見されたからです。
断頭台での“最後の演出”
そして迎えた処刑の日。メアリーは、最期までフランス風の優雅さ、荘厳さを保とうとしました。
断頭台に現れたメアリーは、黒い絹のマントを羽織り、金の十字架を下げていたといいます。メアリーがマントを脱ぎ棄てると、その下から真っ赤なドレスが現れました。それは殉教の色とされており、メアリーは赤いドレスによって自らの死を演出したのです。
こうして、スコットランド女王メアリー・スチュアートはその生涯を閉じたのでした。
栄光と没落という極端な人生を味わい、断頭台の露と消えたメアリーは、のちの時代の人々の創作意欲を強く掻き立ててきました。
オペラ『マリア・ストゥアルダ』や、2019年に日本でも公開された映画『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』など、形を変えながら現代まで語り継がれています。
参考書籍:
『図説 イギリスの王室』石井美樹子 著(河出書房新社)
『残酷な王と悲しみの王妃』中野京子 著(集英社文庫)
『名画で読み解く イギリス王家 12の物語』中野京子 著(光文社新書)
生後6日で即位、3度の結婚、処刑時の赤いドレス。メアリー・スチュアートの生涯そのものが波乱に満ちており、人々の創作意欲を刺激しているのにも納得です!



















